元町駅で電車を降りたあと、コンビニで食料を買い込んでメリケンパークへ向かう。その間も、馬鹿話を続けているのは相変わらずだ。お互い、幼なじみなだけにその辺は気安いし、遠慮がない。
 メリケンパークに入ると、予想通り海際の柵の周囲はもう埋まっている。仕方なく、圭介と美幸は最前列から20メートルほど離れた場所にレジャーシートを敷いて腰を降ろした。
「う〜、下がタイル地だからお尻が痛い」
 腰を降ろすなり、美幸はそう口を尖らせる。
「タオルかなんか持ってへんのか?」
「そんなん持ってへんもん。持っててもせいぜいハンドタオルくらいやし」
「それでも幾分かマシやろうが」
「ハンカチ代わりなんやからそんなん無理やもん」
 そう言う美幸に、圭介は小さくため息をつく。用意周到なのか、抜けているのか、いつも理解に困る辺りだ。それでも、野球部のマネージャーとして弱小であるもののその選手たちを支えているのだから、その行動力には頭が下がる。
「あ…」
 ぼーっとしていると、美幸が空を見上げていた。その声に弾かれたように、圭介は美幸の方を向く。
「どうかしたんか?」
「夕立が来るかも…」
「夕立?」
 圭介もその言葉で空を見上げた。いつの間にか、薄曇りだった空は真っ黒い雲に覆われていた。
「あ〜、ホンマやな。降るかもなあ…」
「かもじゃなくて、降るよ。風が重たなってきてるし、湿度も高なった」
 美幸は空を見上げたまま真剣な眼差しでそう言う。
「…ホンマか?」
「ホンマやもん! 毎日グラウンドで風に吹かれてんねんから!」
 美幸が圭介の方を振り返った途端、その頬に雫が落ちてきた。
「あ?」
 見上げた圭介の顔に、大粒の雨がこれでもかと言うくらいに落ちてくる。
「来たあーっ!」
 美幸は慌てて立ち上がろうとするが、濡れたレジャーシートに足を取られ転んでしまう。
「美幸!」
「うえ〜っ! 転んだ上にびしょびしょやんか〜!」
「文句垂れとらんとさっさと立て!」
 圭介は言いながら、美幸の腕を取って強引に立ち上がらせる。美幸は踵を潰してデッキシューズを履くと、恨めしそうに空を見上げた。
(せっかくの花火の日やのに…)
「美幸! 海洋博物館まで走るぞ!」
 ビニールシートを畳み終わった圭介は、空を見上げる美幸にそう声を上げた。周囲でも、同じように人々が急な雨に逃げまどっている。
「うん!」
 美幸は頷くと、圭介の先に見える白い建物を目指して走り出した。

 同じ敷地内にある海洋博物館の入り口は、同じように避難してきた人たちが同じように恨めしそうに空を見上げていた。そんな中で、確保した席を守るために傘を差して席取りを続ける人たちの姿も見える。
「う〜、下着まで濡れた…」
 紙や顔を濡らした雫をハンドタオルで拭いながら、美幸はさも気持ち悪そうにそう言う。
「ま、ちょっとの時間で水たまりになってたからな、美幸が転けたとこ」
 圭介はそう言って苦笑いだ。
「ホンマ災難やわ」
「確かにな」
 唇を尖らせる美幸に、圭介はそう言って笑うしかなかった。
 海洋博物館の入り口付近は、いつの間にか雨宿りする人で一杯になってきた。仲のいいアベックなどはこれ幸いと肩を寄せて雨に打たれる会場を眺めていた。
「む〜し〜あ〜つ〜い〜」
 濡れ鼠になった上、急に雨に濡れた人が増え、不快指数が一気に上がった場所で、美幸は汗を拭いながらそう愚痴をこぼす。
「確かに暑いな」
 圭介もそう言いながら、ポロシャツの衿を開けて風を送ろうとしてる。
「雨、いつまで降るんやろ?」
「まあ、花火が中止にならへんのやったら、ええけどな」
 じっと見上げてくる美幸に、圭介は素っ気なくそう答える。
「そや! このまま降ったら中止になるやんか!」
「荒天の場合は中止になることがありますって注意書きあったからな。強風でもあかんねやろ?」
「せっかく、圭介と花火見に来んの久しぶりやのになあ…」
「ま、おまえんちの家族と一緒に遊びに行って、無事に済んだことってあらへんからな」
 少ししょげて雨が降り続ける会場を見ている美幸に、圭介はそう言って笑った。
「そんなにめちゃめちゃやったかな?」
 圭介の言葉に、ムッとした視線で美幸は圭介を見上げる。
「前に花火行った時も、帰りにおまえが迷子んなって俺ら探し回んのに必死やってんぞ。そのくせ先に一人で帰ってもうて、けろっとしとったやないか」
「あ〜…。そんなこともあったっけ」
 圭介に言われて思いだした美幸は、苦し紛れに笑いを浮かべて視線を逸らす。
「今年は迷子になんなよ。ただでさえ方向音痴やねんから」
「は〜い、気をつけま〜す」
 美幸はそう言ってから、圭介に向かって舌を出した。

 雨は、ほんの30分ほどで何事もなかったかのように晴れ上がった。エアコンがかかっていたとはいえ、狭い空間にそれなりの人が集まった海洋博物館の入り口からは、蒸し風呂から脱出しようと次から次へと人が出てくる。
 圭介たちも、そうしてようやく海洋博物館から出てきた。
「暑かった…」
 出てくるなり、美幸は肩を落として舌を出す。
「普段グラウンドで暑いのには慣れとおんとちゃうんか?」
「直射日光の暑さと、むしむしする暑さはちゃうもん!」
 きょとんとする圭介に、美幸はそう言い返した。
「ま、また場所取りからやり直しや。少し後ろに下がってまうけど、我慢しいや」
「わかったよお。雨のアホ…」
 美幸はそう呟くと、圭介が敷いてくれたレジャーシートの上に腰を降ろした。大方の雨雫は取れたようだが、それでも乾かない服は不快に感じる。気温も下がり、本来なら爽やかに感じるはずの海風も、肌にまとわりつく服のお陰で、爽快さとはほど遠い。それでも、夏の風は少しずつ夜を連れてきてくれた。
 18時を超えた頃から、人がどっと増えてくる。場所を取り直した今のふたりの位置でさえ、まわりの人垣から見るとそれなりに前の方へ変わってきてしまっている。
「トイレに行くなら今がラストくらいやな」
 少し離れたところにある公衆トイレは、既に長蛇の列ができている。特に数の少ない女性用には、男性用とは比べものにならない行列ができていた。
「今の内に行ってくるわ」
 美幸はそう言うとすっと立ち上がった。そのトイレに行くにしても、レジャーシートで区切られた陣地の間を縫うようにしていくしかない。
「迷子になんなよ」
「ならへんわーっ!」
 笑う圭介に対して、指を突きつけそう叫びながら、美幸は人込みの中に消えた。
『ま、30分で帰ってきたら上出来やな…』
 もう一度トイレ待ちの行列を見ながら、圭介はぼーっとそんなことを考えていた。
 やがて、夜は少しずつ闇の度合いを増してくる。
 普段なら少しは明るく感じる公園内の街灯だが、これだけ人がいる上、海岸沿いの分は全て消されているのでいつもより薄暗く感じる。腕時計を見ると、もう19時半をまわっている。美幸がトイレに立ってから1時間が経とうとしていた。
「あの方向音痴、もしかしたら迷ってんのか?」
 圭介はそう呟くと不興げに膝に肘をつく。どう考えても1時間はかかり過ぎだ。トイレ待ちの行列は予想したとおり更に長くなっていた。
「ホンマに進歩ねえなあ…」
 圭介はそう呟くと大きくため息をついた。

 同じ頃、美幸は圭介が予想したとおり、全く見当違いの方向に歩いていた。
「あれ〜、おっかしいなあ?」
 キョロキョロしてみても、屋台の明かりが強く差し込む辺りに圭介の姿はない。
「確かにこの辺やと思ってんけどなあ…」
 眉を寄せながら美幸はそれでも歩く。もうかれこれ30分くらい圭介のことを探しているのだ。圭介の着ていた青いポロシャツを探していたのだが、青いポロシャツを着た男性など掃いて捨てるほどいた。
「う〜。迷ったかなあ…」
 とおに迷っていたのだが、ようやく美幸はそういう認識になった。
「どうしょうかな…」
 そう考えても探すしかない。メリケンパークは甲子園球場のスタンドのように階段状になっている訳でもなければ、椅子があってそこに座席番号が書いている訳でもない。周囲の風景と記憶を頼りに戻るしかないのだが、美幸はシートを敷いた位置周辺の風景を完全に覚えていなかった。焦りを感じて時計を見ると、もうあと15分で花火が始まる時間になっていた。
「早よ戻らな…」
 美幸はそう呟くと、とりあえずトイレの行列を目指して戻り始めた。そこから、もう一度歩いてみようと思い直したのだ。
 トイレの前まで戻ると、美幸はもう一度辺りを見渡してみた。圭介が一人でいることを思いだしたのだ。ここから一人で座っている青いポロシャツの男性を捜せば、それが圭介である可能性は高い。しばらく人垣に目をこらしていると、こっちをじーっと見ている男性が一人いることに気づいた。ポロシャツ姿で、服色は青系だ。
「あれやっ!」
 美幸は思わずそう声を上げると、驚いて振り返る人たちのことは気にも留めずにその方向へ向かって歩きだした。近づいてくると、それは間違いなく圭介だと断定できた。何よりも、その呆れ顔が如実に全てを物語っている。
「ただいまっ!」
「ホンマに進歩ねーなー、美幸は」
 横に腰を降ろす美幸を見ながら、圭介はそうぼやく。
「ちゃんと始まるまでに戻ってきたやんか!」
 そう美幸が声を上げた瞬間、会場となるメリケンパークの、海側の街灯が全て明かりを落とした。そうして、海から唐突に上がる花火。
「ほら、間に合ったやん!」
「ギリギリやないか」
「セーフはセーフ!」
「はいはい」
 大きな音を上げながら連続で空を染める花火に、ようやくふたりは顔を上げた。
 すぐ目の前の海から台船を使って上げられる花火は、大きなものになると覆い被さってくるようにすら見える。音も、間近なだけにほとんどタイムラグはなく、腹の底に響く大きな音で臨場感を演出していた。
「きれい…」
 そんなぽそっとした呟きを耳にした圭介は、ふっと美幸の方を振り向く。花火の色に大きな瞳を輝かせながら、うっとりとした表情で美幸は空を見上げていた。子供の頃には全く見ることのできなかった表情だ。その長い髪を海風が優しくく揺らした。
「ん?」
「何もねえよ」
 不意に振り向いた美幸にそう返すと、圭介も空を見上げた。
(美幸にも、俺にもそんだけの時間が流れたっちゅうことか…)
 そう思いながらまわりを見ると、家族連れかアベックが大半だ。
(この状態やと、俺らも恋人同士に見えるってか)
 圭介はそう思うと自嘲気味に笑った。


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