心のDistance ココロ ノ ディスタンス ラジカセから聞こえるのは、野球のナイター中継だ。そのラジカセを前に、タイガースの法被を着て、メガホンを振っている少女の姿がある。誰かとたずねなくても、この物語では柴田美幸以外にはあり得ない。その試合ももう佳境に入っていて、既に9回の裏になっていた。 『バッター住友に変わりまして、金森。バッターは金森』 「行けーっ、金森ーっ!」 代打のコールに、美幸は声を上げる。振り回したメガホンと一緒に、首の辺りでひとつにまとめた髪が揺れた。 『空振り三しーん! 試合しゅーりょーっ! タイガース、反撃も及ばず敗れました!』 「あ〜あ」 ラジオの声に、美幸はがっくりとうなだれるとラジカセのスイッチを荒々しく切った。 「今日も負けてもうたかあ…」 言いながら、法被を脱いで壁にかけると、メガホンもいつもの定位置に置いた。そうして、ごろんとベッドに横になる。 「夏の予選は終わってもーたし、タイガースは勝てへんし、退屈やなあ…」 そう呟いて、大きく欠伸をする。先に夏休みの宿題を済まそうなどという考えとは無縁な瞳は、カレンダーをぼんやりと眺めていた。野球部の秋季大会までまだまだ日にちもあるし、あと2ヶ月ほどで終わるプロ野球のペナントレースも、その優勝の行方に贔屓のタイガースが絡まないことが確定的になって、野球好きの美幸にとっては、特に退屈な8月になりそうだった。その中で、丸印をつけてあった翌日の日付が目に入る。 「明日、海上花火大会かあ…。そう言や、長いこと行ってへんなあ…」 海上花火大会とは、神戸元町のメリケンパーク沖打ち上げられる花火大会のことだ。規模、人出とも神戸周辺では最大規模のものになる。毎年恐ろしいほどの人出で賑わっていた。 「久しぶりに見に行ってみよかなあ…」 そう呟いて、一緒に行ってくれそうな人の顔を探した。親友の美沙は、明日はサッカー部の試合で夕方までいない。と言うことは、それから行っても場所が取れない可能性が高かった。いつも一緒に行動してくれる母も父も、このところ忙しいらしく、そんな余裕は無さそうだ。中3になって急に色気づいてきた妹は、おそらく彼と出かけるだろう。 「と言うことは、急やけど圭介にまた頼んでみようかな…」 美幸はそう呟くと、出かけるために部屋を出ていった。その最後に出かけた花火大会は、小4の時に家族で行ったもので、その時は圭介とも一緒だったのだ。 「ちょっと出かけてくるね」 「気いつけや〜」 美幸の声に、奥から母親の声がのんびりと返ってくる。その声を背中に、美幸はデッキシューズを履くと、ドアを閉めた。 圭介がバイトしているPage55は、22時まで営業している。その辺の情報は、生物の時間席が前後の晶から仕入れていた。美幸の家から、Page55のある深江駅前までは5分ほどだ。美幸は圭介のバイト上がりを待ち伏せするつもりで、少しのイタズラ心を胸に駅前に歩いていった。 店の横のゲームセンターでは、賑やかな音と共に、同じ年頃の少年たちがゲームに興じている。それを横目で見ながら、美幸は駅前で圭介を待った。店の明かりは暗くなっていて、おそらく圭介はもうすぐ出てくるのだろう。 ぼーっと待っていると、電車が駅に滑り込み、人が降りてきた。その人を避けると、また駅の周囲はゲームセンターからの音と車の通過音だけになった。 「…意外に遅いなあ」 美幸はそう呟くと、店への階段をのぞき込んだ。すると、店のドアが開いて、圭介と恵里佳が出てきた。 「あれ、美幸やん」 「あ、ホンマや。美幸ちゃ〜ん!」 圭介の声に、美幸と旧知の恵里佳は大きく手を振る。 「あれ? 恵里佳ちゃんもバイトここやったんや」 美幸は予想外の人物の登場に目を丸くする。 「そうや。時給は普通やけど、長いこと働けるからなあ、ここ」 そう言って笑う恵里佳に、美幸は苦笑いを返すしかない。 「でも、どないしたん、こんな遅うに」 「ちょっと圭介に用事あんねん」 「俺に?」 美幸の言葉に、圭介は怪訝な顔を返す。 「ほな、ウチはお邪魔やな。またな〜、美幸ちゃ〜ん」 「うん。ばいば〜い!」 手を振りながら去っていく恵里佳に、美幸も大きく手を振り返した。 「用事ってなんや?」 「まあ、歩きながら話そ」 美幸はそう言ってぽつぽつ歩きだす。圭介も怪訝な顔をしながらその横を歩いた。 「圭介、明日ヒマ?」 「は?」 突然の言葉に、圭介は思わず素っ頓狂な声を上げる。 「ほら、明日神戸の花火大会やんか。ヒマやから、一緒に行かへんかなあと思って」 美幸はそう言って笑う。全く邪気の感じられない、昔と変わらない笑顔だ。 「武田とか仲ええ奴他にもおるやろうが。そいつらと行かへんのか?」 「美沙はねえ、明日試合なんやわ。試合終わってから行ったら、場所取りでけへんやん」 「それで俺な訳か?」 「そっ。幼なじみのよしみで、一緒に行ってくれへん?」 満面笑顔の美幸に、圭介はため息をつく。そして、明日は晶や陽たちに電話をする以外に予定は入っていない。 「わかった。一緒に行ったる」 「さっすが圭介。こういう時は頼りになるわ〜」 「便利使いすんな!」 圭介がそう言っても、美幸はケラケラ笑うだけだ。 「と、言う訳で、早めに行って場所取りしたいから、14時に集合!」 「は?」 「と言う訳やから、遅れて来んといてね〜」 美幸はそう言いながら、角を家の方へ曲がっていった。 「おい、美幸っ!」 そう呼びかけても、少々浮かれ気味の美幸には聞こえないようで、美幸はそのまま振り返りもしないで去っていった。 「ったく…。相変わらずやな、あいつも」 圭介はそう言うと、大きくため息をついた。 「あれ? お兄ちゃん出かけるの?」 約束の14時の前、玄関で靴を履く圭介の姿を見つけて、真由子は素っ頓狂な声を上げた。確か、今日は明日の花火に備えてバイトは入れてないはずだったからだ。 「ああ。美幸が花火に連れてけってな。行ってくるわ」 「え? 美幸姉ちゃんと? ねえ、お兄ちゃん!」 驚く真由子を残して、無情にも玄関のドアは閉まった。 「…なんで、お兄ちゃんと美幸姉ちゃんが…?」 そう呟くと、真由子の表情は曇る。幼い頃に、いつも憧れて見ていた美幸の姿がふっと浮かぶ。 「なんで…?」 そうして、トボトボと部屋に戻っていった。 「圭介、遅ーい!」 改札前に着くなり、美幸の甲高い声が圭介を出迎えた。毎度のことに、圭介はため息をつくしかない。 「おまえ、毎回やな」 「早よ行かんと、ええ場所が無くなってまうやんか!」 美幸は切符を圭介に渡しながらそう喚く。 「はいはい。やったらもう1時間早よ待ち合わせしたらええやんけ」 「女の子は準備に時間かかるもんなん!」 そう言いながら、美幸は階段を駆け上がっていく。その後ろ姿は、野球に行った時に比べると、随分とおめかししてきているのだとわかる。デニムのスカートから、唯一日焼けしていない脚が伸び、デッキシューズが跳ねていた。 「ほら、電車来んで、早よう!」 「わかったよ!」 階段の上から見下ろす美幸にそう声を返すと、一気に階段を駆け上がった。 電車は近隣駅である神戸元町へ向かって走る。いくらイベントのある日だと行っても、この時間だとまだ電車の中はまばらだ。 「しっかし、花火始まるの20時からやろ? 何でこんなに早よ行くんや?」 御影で特急に乗り換えてから、圭介は改めてそう聞く。 「この時間に行かんと、メリケンパークん中のええ場所なんか埋まってまうやんか」 美幸はそう言って唇を尖らせる。 「早い人なんか、午前中から行って席取りしてんねんで!」 「それはいっちゃん前の特等席やろうが」 圭介は呆れた顔を美幸に返す。 特等席とは、一番海際の転落防止柵の前のことだ。ここからなら、仕掛け花火も最前列できれいに見ることができる。この時間から行けば、人の壁で直立型の仕掛け花火は諦めるしかない。 「ま、見れるんやからええやないか」 「そりゃあ、そうやけど」 そう言いながらも、美幸はまだ不機嫌そうだ。 「美幸は子供の頃からそうやったよな。ほしいもんがあっても、手え伸ばすんがほんの少し遅うて、手が届かへん」 「成長ないって言いたいん?」 「ええんちゃう? 今時貴重やろ、美幸みたいなタイプの女の子」 圭介はそう言って笑う。からかわれたと思った美幸の頬はプーッと膨れていく。 「圭介かって、昔のままやんか!」 「俺は昔のままやないで。良うも悪うもな」 圭介はそう言って苦笑いする。 「そういう意味では美幸が羨ましいわ。ずっとそのままでおれたら、いろいろと楽しいやろうな」 そう言って窓の外を見る圭介を、美幸は怪訝な顔で見つめる。 「なんか悪いモンでも食べたん?」 「別に」 そう素っ気なく笑うと、もう圭介はいつもの表情だ。 「ま、今年の初花火や。しっかり楽しも」 そう言う圭介に、美幸は怪訝な表情のまま頷いた。 |