「…こんな感じでよかったんかな?」
 麻由美と天城が改札の奥に消えたあと、美幸は圭介の左腕にからみついたまま圭介を見上げてくる。
「協力は感謝するけど、さっさと離れろ」
 圭介は渋面を作って美幸を見下ろす。そんな圭介に、美幸はニカッと笑ってみせた。
「ええやん。このままお昼ご飯食べに行こうや」
「蛸どうするつもりやねん。溶けんぞ」
「大丈夫大丈夫。ちゃんと氷も入れてもらったやん」
 のんきそうな笑顔が、圭介に向けられる。昔から天然なところはあったが、今はそれがより強化された感じだ。誰にでも人なつっこいのは昔からだったが、これからもこうだと思うと、危なっかしくて見ていられない。
「…胸当たっとおから離れてくれ。こっ恥ずかしいわ」
 圭介がそう言うと、美幸は急に顔を赤くして、バックダッシュでもするように圭介から離れる。
「ご、ごめん」
 両手で胸を隠し、耳まで真っ赤にして見上げてくる表情は、圭介にとって初めてのものだ。正直面を食らったと言ってもいい。美幸を離すには効果的だろうとは思ったが、ここまで効き過ぎるとは思ってもいなかった。だから、圭介はニッと笑う。
「嘘や。そんなんわかるはずないやろ」
 圭介がそう言うと、美幸は安心したように表情を緩めて、息をつく。圭介も、その表情を見て思わずため息をついた。
(美幸も女なんやなあ…)
 羞恥の表情、安心した表情は、今まで他のどの女の子も圭介に見せたことのない表情だ。そう言うある種女性的な表情を見せられると、そう意識せずにはいられない。一緒に泥だらけになって、一緒に風呂に突っ込まれた幼い日々は、もう随分遠くなったのだなと思う。
「圭介、どっか、ご飯食べに行こ?」
 幾分しおらしくなって、美幸はそう圭介を見上げてくる。その変わりようも、圭介を刺激するものだと美幸は気づいていない。
「とりあえず、そこのラーメン屋ででもええか?」
 わざと意識を飛ばして、圭介はそう美幸に聞く。こっくり頷く美幸の仕草が、年頃の少女のものに見えるから不思議だ。
(俺もヤキが回ったな)
 圭介はそう思いながら、ゆっくりと歩き出す。美幸は慌ててその圭介に並びかける。
 幼い頃、こうして美幸と真由子を両に従えて歩いたなと、圭介は少し感傷的になった。

 食事を済ませ、二人は遅れて深江に戻ってくる。いつものように戻ってきたつもりだが、美幸はさっきのことを気にしているのか、いつもの勢いがない。
「さっき、ゴメンね」
 いつもの分かれ道にさしかかった時、美幸は少し俯いたまま圭介にそうぽつりと言う。表情は見えないが、羞恥や軽はずみな行動への後悔などもあるんだろうなと圭介は推測する。美幸に聞こえないように小さくため息をついたあと、右手を伸ばすと美幸の頭を軽くポンポンとたたく。
「役得だと思っとくから気にすんな。そうしおらしゅうなられたら調子狂うわ」
 圭介の言葉に、美幸はバッと顔を上げる。少し驚いていた表情が、一瞬のあとほころんだ。
「真由子まだ熱引き切らんから、俺は明日まで学校いかんからな。また明日な」
「うん。また明日!」
 そう言う圭介に、美幸はいつもの笑顔を向ける。圭介も美幸に笑顔を返したあと、美幸に背を向けて軽く右手を挙げた。
(あの美幸がな…)
 交差点を振り返ると、もう美幸はいない。圭介は右手に提げた冷凍蛸をぶらつかせながらマンションの部屋に戻ってきた。
「おかえり、おにーちゃん」
「起きてたのか」
 圭介がドアを開けると、真由子は台所で紅茶を飲んでいるところだった。目の前には、焼いていない食パンが食べかけで皿の上に載っている。
「熱下がったんか?」
 冷凍蛸を冷凍庫にしまいながら、圭介はそう聞く。
「やっと下がった。今日一日寝てれば明日は平気やと思う」
 紅茶のカップを両手で持ちながら、真由子はそう言って笑う。その笑顔にも、ようやくいつもの元気さが戻っていた。ホッとした圭介は、その真由子に優しい笑顔を返す。
「そらよかったわ。晩飯におじや作ったるから、それ食って今日もう一日しっかり寝とれ」
「うん、そうする。ありがと、おにーちゃん」
 そう笑う真由子にしても、童顔で未だに小学生と間違われることがあるが、もう昔とは仕草をとってみても違うのだ。時間は少しずつ容赦なく流れていく。
(真由子は、どんな幸せを掴むんやろな…)
 部屋に戻っていく小さな背中を見ながら、圭介はそんなことを思う。

 記念祭四日目は、五日目と並んで文化部の集大成を披露する場でもあり、各クラスの出し物を競う場でもある。圭介たち二年I組も美幸と麻由美の先導でたこ焼き屋の準備が終わっていた。
「おにーちゃん、たこ焼き屋っていつ店番に入ってるの?」
 出かける直前、やっと普段の元気を取り戻した真由子がそう圭介に聞く。
「俺か? 今日の十時から十一時半まで」
 真由子の制服姿を見るのも久しぶりだなと思いながら、圭介はそう答える。
「うわ、忙しくなる直前で抜けとお」
 真由子がそういたずらっぽく笑う。その笑顔に、圭介も笑顔を返す。
「元気になってよかったな」
「うん。おにーちゃんが店番の内に由衣ちゃんと一緒に行くから。じゃあ、鍵よろしくね」
 大きく頷いた真由子は、そう言って一足先に玄関から飛び出していく。その背中を見送ったあと、圭介もおもむろに鞄を担ぐ。
「さーて、てきとーに頑張りますか」
 そう呟くと、大きく伸びをしてから部屋を出た。
 今日の出席に関しては完全に生徒に任されている状態なので、いつもの通学路も生徒の数は少なく見える。近所にある出身中学や深江浜高校の生徒の方はいつもどおりなので、なんだか少し異様に思える。
「圭介ー!」
 飛び込んできた声に圭介は鷹揚に振り返る。ここ数日聞き慣れすぎた美幸の声だ。
「おっす」
「おはよう!」
 昨日のしおらしさが嘘のように、美幸はいつもの元気を取り戻したような姿だ。いつものように圭介の左に並びかけて笑う。
「昨日はお疲れ様。今日は店番頼んだからね。さぼったらあかんよ」
「おう、任しとけ。バイトで鍛えた技の冴え、見せたるわ」
 茶化して腕をたたく圭介に、美幸はきょとんと目を丸くする。
「Page55って、たこ焼きも売ってんの?」
「んな訳あるか」
 なんの疑いもなく向けられる視線に、圭介はそう突っ込む。
「ホンマに美幸は天然やな」
「自覚あるからええよ。じゃあ、今日はよろしくね」
 美幸はそう言って笑うと、軽く手を振ってスカートの端をひらめかせながら駅の中へ駆け込んでいく。
(ま、元気になったみたいやからええか)
 少し軽くなった足取りで、圭介も改札へ向かう階段を下りていく。

 各ラスの出店、文化部の展示などがあって、学校は既に華やいだ雰囲気を纏う。教室は既に一年生に貸し出されているので、圭介は中庭でぼーっとすることもなく出店の準備をする他のクラスの生徒を眺めていた。
「早よ来すぎたな…」
 なんとなくいつものペースで来てしまったが、よく考えれば店番の割り当て直前に来ても問題がなかったのだ。それでも、朝一で美幸の元気な姿に出会えたのは気持ちを軽くしていた。自分のクラスのたこ焼き屋に目をやると、美幸は時折麻由美に制止されながら元気に動き回っている。
「委員長も苦労が絶えんな」
 そう苦笑いを浮かべて、圭介は再びしばしの眠りに意識を墜とすことに決めた。

「おーい、高遠ー」
 声に圭介がうっすらと目を開けると、目の前には晶の姿がある。
「おう、高橋」
「おうやないで。もうすぐ店番の時間やないか」
 腰に手を当てて見下ろしてくる晶に言われて、圭介はおもむろに腕時計に目を落とす。五分前だ。首を巡らせると、校内は随分と活気が満ちてきていた。
「ナイスタイミング。起こしてくれてサンキュー」
「早よ準備しいや。武藤も佐竹も待っとるで」
 立ち上がって尻を払う圭介に、晶はそう言って指を差す。たこ焼き屋の周りで、潤一郎と北斗が粉を溶いたバケツをのぞきこんでいた。
「おっしゃ。いっちょやったるわ」
 圭介はゆっくりと潤一郎たちの方へ歩き出す。その圭介の背中を、晶は自嘲気味に笑いながら見送る。
「おーす」
「よお」
 圭介の声に、潤一郎と北斗が同時に顔を上げてそう返してくる。その横では、陽が不安そうにたこ焼き器の方を見ていた。
「前の組の売り上げってどれくらいやったん?」
「ようやくボチボチで出したとこみたいやな。ま、朝飯からたこ焼き食うヤツも少ないやろからな」
 以前朝からお好み焼き定食を食べると豪語していた潤一郎がそう言うので、圭介は「おまえが言うな」と突っ込んでおいて話を先に進める。
「さて、どういう戦略で行こか」
「やる以上は儲けんとな」
 この組のメンバー、潤一郎、北斗に晶と陽をざっと眺めながら言う圭介に、潤一郎がそうニッと笑う。
「ソースもんやから集客の基本は臭いやな」
「あとは、綺麗処を並べるのも基本やな」
 圭介の言葉に、潤一郎が晶と陽を見る。その瞬間、晶と陽がぎょっとしたように顔を見合わせる。
「あ、あたしらは自信ないで」
 そう言う晶の横で、陽も首を縦に振っている。
「関東出身の葛城はともかく、高橋はずっとこっちやねんからたこ焼きくらい焼けるやろ?」
「あたしは食べんの専門やからな」
 圭介の言葉に、晶は苦笑いを浮かべるしかない。圭介の期待に応えられないのが少し苦しい。こんなことなら少し練習でもしておくのだったなと臍も噛む。
「ま、それでも綺麗処を後ろに下げんのは勿体ないな。焼くのは高遠と佐竹に任しときゃええとして、高橋と葛城は呼び込みと会計やな」
 潤一郎はそう言ってひとりごちに笑う。
「おまえはなにすんねん」
「絶妙の配合で生地作ったるわ。今のままやと堅すぎるからな」
 潤一郎は得意げに笑うとバケツを軽くたたく。圭介はその様子に鼻を鳴らした。
「ほんなら、葛城が接客、高橋が呼び込みやな」
 圭介はそう言って晶と陽に笑いかける。
「声の通りなら任して」
 そう言う晶の横で、陽も安心したように頷いた。
「ま、役の割り当ては決まったから、ボチボチやろか」
 潤一郎がそう言って、このメンバーでの店番が始まった。
 まだ客の少ない前半は、それこそノンビリしているが、十一時を越えたあたりからが勝負になると潤一郎は踏んでいた。北斗には大した期待はしていないが、その乗り気ぶりから圭介には期待している。
「武藤、通しもう一本あるか?」
 圭介から飛んできた声に、潤一郎は千枚通しを軽く投げてよこす。
「ほいよ」
「投げんな!」
 そう言いながらも、圭介は危なげなく受け取り、左手に新しい千枚通しを持つ。
「どないすんねや、それ?」
 両手に一本ずつ千枚通しを持つ圭介の姿に、晶はそう聞く。
「ちょっとしたパフォーマンスや」
 圭介はそう言って、両手に持った二本の千枚通しを使って、ものすごい勢いで半分が焼き上がったたこ焼きを裏返していく。カッカカカッカカと千枚通しがたこ焼き器を突くリズムのいい音が響く。その手さばきに、前を通りかかった生徒も思わず足を止める。
「すごいな」
「マスター直伝」
 そう言って圭介は晶に笑う。
「あのマスターってコーヒーだけやなかったんやな」
「若い頃はいろいろやっとったって言うてたからな」
 そう話をする二人の横で、陽が「いらっしゃいませ」と来た生徒に応対していた。
「二つお願いします」
「ほい、佐竹」
「了解っ」
「六百円になります」
 そんな声が狭い屋台の中で響く。


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