スクラッチ スクラッチ

 9月28日、快晴。
 この日は菟原高校89年度記念祭の二日目だ。
 市内の劇場を借り切っての「文化部公演」が行われる。これは、展示系でない文化部である吹奏楽部、演劇部、放送部、ギター研究部、邦楽部、落語研究部の舞台となる。そしてその後、後夜祭を彩るバンドの選考会が行われる予定だ。
「しっかり寝とけよ」
 家を出しな、圭介は真由子の部屋をのぞいてそう声をかける。真由子はその圭介にゆっくりと身体を起こした。
「うん。いってらっしゃい。バンド頑張ってね、おにーちゃん」
 そう言う顔はまだ赤い。幾分下がったものの、まだ高熱は真由子を冒していた。
「ちゃんとてっぺん取って、最終日に聴かしたるわ」
 圭介はそうニッと笑うと、部屋のドアを閉めた。遠くで、玄関の閉まる音が聞こえ、真由子はもう一度身体を横たえた。
「あ〜、行ってもうた…。やっぱり、淋しいな…」
 普段からあまり病気をしたことがない真由子にとって、今の自分の状況は不安でもある。昨日は圭介に思いっきり甘えることができただけに、やはり不安もあるし、淋しいという気持ちが大きくなる。
「でも、頑張ってもらわんとあかんから、我慢我慢…」
 そう言い聞かせて、真由子は目を閉じる。高熱と薬で疲れた身体は眠りに誘われていく。

 文化部公演が行われる劇場は、阪神菟原駅の下を流れる菟原川の東岸にある。学校からは、1キロ弱の距離だが、現地集合となっていた。圭介はいつものとおり菟原駅で電車を降りると、駅を出て北へ川沿いを歩き出す。
「圭介〜!」
 甲高い声に振り返ると、美幸が長い髪を揺らしながら追いついてきた。
「うす」
「おはよ」
 そんな短い挨拶が交わされる。
「いよいよやね。今日は頑張っちゃうんでしょ?」
 美幸は笑顔でそう聞いてくる。野球大好きの美幸にとっては、選考会というのは大会と変わらないように映っているらしかった。
「そら、やるからにはな。武藤が張り切っとおし、葛城も頑張ってくれとおからな」
 圭介はそう美幸に笑う。
「そやね。葛城ちゃんがどんな風にキーボード弾くんか楽しみやねん」
「かなり期待しとってええぞ」
 楽しそうな美幸に、圭介はそう真顔で言う。事実、陽の技量に関して言えば、学内バンドとしてなら極上と言えた。
「んじゃあ、楽しみにしとく。よっぽどのことがなかったら、圭介んとこへ入れるから」
「ちゃんと聴いてからな」
 そう言う圭介に、一瞬美幸は真顔を見せてじっとその顔をのぞきこむ。
「なんや?」
 虚をつかれた圭介に、美幸はまた笑顔を見せた。
「らしいなって思ってん。ちゃんと聴いてから入れるから」
「ああ」
 そう言うと、圭介はそっぽを向いた。美幸にじっと見つめられるのは慣れていない。幼なじみとは言え、照れくさいのだ。
「それからね、明日の講演会のあと、たこ焼き部隊は買い出しに行くから、手伝うてね」
 そっぽを向いた圭介に美幸は笑顔のままそう話しかける。圭介は、ゆっくりと振り返った。
「わかった。あっこの業務用スーパーでええんやな?」
「うん。冷凍蛸はみんなで手分けして保管することになったから、圭介も協力よろしく」
「わかった。誰が他に行くんや?」
「えーとね、あたしら以外は、委員長と、天城くんと、友里ちゃんと、諸星くん」
 美幸は空を軽く見上げながら、指折り数えていく。
「俺らと委員長と天城、お邪魔ちゃうんか」
 そのメンバーを聞いて、圭介は軽く笑う。
「友里ちゃんと諸星くんって、つきあってんだっけ?」
「やろ? ウチのクラスじゃ、唯一のカップルらしいやん」
 美幸の言葉に、圭介はそう笑う。
「ま、諸星と友里は途中で分離するとしてやな、終わってから直行でええな?」
「うん。いろいろと用意しとくから」
「ほんなら、頼むわ」
「うん、またあとでね」
 美幸はそう笑顔を残すと、信号の向こうに見えた親友の元へ駆けよっていく。
「美沙〜!」
 その賑やかな声が、車のエンジン音で満たされた国道の交差点で遠慮なく響いた。

 劇場の中に入ると、もう生徒はおおかた集まってきている。圭介は先に渡されていたプリントを見ながら、あてがわれたクラス席へ移動していく。
「おっす、高遠」
 めざとく圭介を見つけた潤一郎が先に声をかけてきた。圭介が顔を上げると、潤一郎、北斗、晶に陽といった山手中学卒の徒歩通学組は既に顔を合わせていた。
「早いな」
「そらあ、近いからな。一応山中の校区内やからな、ここ」
 潤一郎がニカッと笑う。そうして、圭介に一枚のプリントを渡す。
「選考会の順番や」
 八組のバンドの名前が書かれたプリントを渡され、圭介はざっと目を通した。
「トリか、俺ら」
「印象が一番残り易うてラッキーや」
 圭介の言葉に、潤一郎はいたずらっぽく笑う。
「強敵は七番目の『ブルーバード』やな。ギタ研のメンバーで固めとおらしい。前評判も悪ないわ」
「『ブルーバード』っつたら、去年の後夜祭バンドやんか!」
 その名前を聞いて、晶が思わず声を上げる。
「そや。メインメンバーは三年やから、今年はラストやって張り切っとおみたいやからな」
「関係ないな」
 潤一郎の言葉に、圭介は間髪入れずにそう言う。晶と陽がびっくりしたように圭介を見上げた。
「俺らは俺らの音楽を演奏る。それだけや。他がどうなんて関係ないわ」
 そう言って、圭介は陽を見る。
「やろ?」
「うん」
 得意顔の圭介に、陽は笑顔で大きく頷く。その様子に、潤一郎も満足そうな笑みを浮かべた。
「おっしゃ。あとで中倉と朝田も集めて軽く最終の打ち合わせしとこか」
 潤一郎はそう言うと、椅子に腰を下ろした。圭介を引き込んだ判断は間違いないと確信する。それが、陽という拾いものの好素材まで引き込んでくれたのだから。
 潤一郎はまだ降りたままの緞帳の向こうを見る。そうして、ニヤリと笑った。

 文化部公演は、放送部の放送劇を皮切りにどんどん進んでいく。
 興味のない生徒にとっては退屈なだけということもあって、半分くらいは居眠りやら他のことで時間を潰すものもいた。だが、それがちょっとしたざわめきに変わったのは、ギター研究部の演奏が始まってからだ。
「めっちゃ巧いやん…」
 晶が思わずそう呟きを漏らす。ステージの上では、小柄な女生徒がギターの弾き語りを続けている。
「2−Fの中村やな。巧いとは聞いとったけど、これほどとはな」
 後ろの席にいた潤一郎は、そうこぼす。これは想定外だと言ってもいい。圭介はああ言ったものの、強敵は少ない方がいい。この中村望は、後夜祭バンドの三組目に名前があった。ちらっと横の席にいる圭介に視線を向けてみたが、圭介にはなんの表情も見えない。
(さすがというか…)
 潤一郎は少し呆れながら、それでもこの悪友を頼もしく思う。前の席にいて、表情の見えない陽はどうだろうか。残りのメンバーである賢一や健太は。
(ま、高遠の言うとおり、やるしかないっちゅうわけやな)
 潤一郎はそう思い直すと、椅子に座り直して腕を組んだ。
 望のステージは、大喝采で終わる。
 陽はちらっと後ろを振り返った。
 圭介は、その陽にニッと笑って見せた。

 午前中の大半を使って、文化部公演は終了する。
「続きまして、後夜祭バンドの選考会に移ります。時間のある生徒は残って選考に協力してください」
 実行委員が舞台に上がって、帰り支度を始める生徒たちに訴えかける。それでも、半分くらいは出口へ向かってしまっただろうか。
「さて、俺らは行きますか」
 潤一郎が立ち上がると、大きく頷いて圭介も立ち上がる。陽もゆっくりと立ち上がった。
「陽、頑張や」
 晶の笑顔に、陽は大きく頷く。
「高遠も武藤もな。ここで見てるさかい」
「頑張れよ」
 晶と北斗が、そうエールを送る。
「ま、まかしとき」
 潤一郎がそう言うのを、圭介はヘッと鼻で笑う。
「俺らは俺らのするべきことをするだけや」
「行こう、高遠くん、武藤くん」
 陽の笑顔が、全ての合図となった。

 舞台裏の控え室へ行くと、もう健太と賢一は来ていた。
「トリって落ち着かへんなあ」
 健太はそう言って苦笑いを浮かべている。
「ま、全部の実力、袖からゆっくり見さしてもらおうや」
 潤一郎の言葉に、陽も大きく頷いた。
『皆様、お待たせいたしました。エスコート役の放送部、坂本です。それでは、早速始めてもらいましょう! 1年生が果敢に挑みます。エントリーナンバー1、スプラッシュ!』
 スピーカーから、ステージの放送が流れ、演奏が始まる。
「始まったな」
 圭介はニッと笑う。
 普段の調子を外されっぱなしの陽は、その不敵な笑みに戸惑いがちに頷くことしかできない。
「高遠って人変わりするやろ?」
 声に陽は潤一郎を見上げる。
「…うん。びっくりしてる」
「ホンマにB型やわ。気が乗るモンにしか本気にならん」
 潤一郎はそう言って苦笑いを浮かべる。
「ま、俺もABやから人のことは言えんけどな」
「わたしもAB。武藤くんの言いたいこと、なんとなくだけどわかる」
 陽もそう言って苦笑いを浮かべた。
 その陽に、潤一郎はまた苦笑いを返す。この無邪気さが、苦手なのだと再認識させられた。


                                         

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