グレーで塗りつぶされた遠い記憶の中を、彼女は歩いていた。
 目の前に見える兄代わりの存在は、まだ幼い。
「マユをいじめるな!」
 そう言って、圭介は真由子をからかっていた少年たちと殴り合いの喧嘩をしている。
 もう、遠い遠い昔の記憶。
 いつも優しかった兄代わりの従兄。
 ただ、それだけの存在だったはずなのに。
「よっ、目ぇ覚めたか?」
 真由子がうっすらと目を開くと、布団の横で、圭介は本を読んでいた。額の上に、濡れたタオルの感触がある。
「お兄ちゃん…」
 真由子は額からタオルを外すと、ゆっくりと起きあがろうとする。まだ、頭がガンガンして目が回る。
「熱あんねんから、無理すんな」
 言いながら、圭介は右手を真由子の額に当て、左手を自分の額に当てる。不意をつかれた真由子は、熱の症状以上に赤くなる。
「まだ全然下がってへんな」
 そう言って、圭介は腕を組む。
「病院に行った方がええな」
「病院って、今、何時?」
 真由子は荒い息の中からそう聞く。既に部屋が明るいのだから、朝にはなっているはずだ。
「11時前やな。まだ午前の診察に間に合うから行くぞ」
「えっ!? 11時」
 真由子はその言葉に慌てて飛び起きる。
「知事杯! もう始まってもうてる!」
「そんな状態で行けるわけないやろ。連絡は入れといた。まずは体温測れ。それから病院行くぞ」
 圭介はそう言って、真由子に体温計を投げる。真由子はしょんぼりと頷くと、体温計を腋に挟んでまた横になった。
 知事杯に行けさえすれば、インターハイ出場も夢ではなかっただけに、この体調管理の失敗は悔やまれる。
(インハイ行きたかったなあ…)
 そう思いながら目を閉じる。
 そうしてふと気づいた。
「お兄ちゃん、体育祭は!? もう始まっちゃってるやん!」
 真由子はまた慌てて圭介にそう声を上げる。
 だが、圭介はニッと笑った。
「そんな状態のおまえ放っといていけるわけないやろ。こっちも連絡ずみや」
「…ごめん」
 圭介が無遅刻無欠席なのを知っているだけに胸が痛む。だが、圭介は全く意に介した風もない。
「早よ良うなってもらわんと、飯が貧相やし、いろいろと不便やからな」
 そう言って圭介は笑う。家事を肩代わりする代わりにここにいさせてもらうと言う最初の約束を持ち出されて、真由子は苦笑いを浮かべた。それでも、必要とされているのは嬉しい。
 体温計が、電子音で計測終了を知らせる。
「40.2度…」
「そりゃあかんわ」
 圭介は言いながら、真由子から体温計を受け取り、確認する。
「負ぶって行ったるから、起きいや」
 そう言って、圭介はしゃがんで背を真由子に向ける。
「こ、このままで!?」
「病人やねんから、パジャマでもなんも問題ないやろうが」
「き、着替えるから! ちょっと台所で待ってて!」
 真由子はさすがに慌ててそう言った。いくら病人でも、さすがに年頃の女の子である。パジャマで外出する気にはなれなかったのだ。
「わかった。着替え終わったら声かけや」
 少しの間渋い顔をしていた圭介だが、最後はそう言って部屋を出てドアを閉めた。
「着替えなきゃ…」
 真由子はふらつく身体を叱咤しながら、着替え始める。パジャマを脱ぎ捨て、Tシャツとデニムシャツを被り、Gパンを履いた。髪は寝癖が少しあるが、そこまでは構っていられない。
「お兄ちゃん、着替え終わった」
「ほんなら行くぞ」
 部屋に戻ってきた圭介は、さっきと同じように真由子に背に乗れとしゃがみ込む。
 真由子は少し躊躇したが、その背に身体を預けた。
「行くぞ」
「うん」
 すっと圭介が立ち上がり、真由子の視点も高くなる。146cmの真由子にとって、173cmの圭介の視点は新鮮だった。
 圭介は真由子を負ぶったまま、器用に玄関のドアに鍵をかけ、マンションの階段を下り出す。
「…重くない?」
「おまえ小さいから軽いわ」
 圭介は言いながら、小気味よく階段を下りていく。
 真由子にとっては、幼い頃以来の圭介の背中だ。いくら兄妹のように育ったと言っても、中学以降は少し疎遠になり、ましてや性別も違う。今の圭介の背には恥ずかしいという感情の方が強い。
(背中…意外に広いんやなぁ…)
 それでも、熱の強襲は真由子を疲労させた。身体を起こしていることが辛くなって、真由子は圭介の背にもたれかかって体重を預けた。小柄だとはいえ健康優良児だった真由子には、父親にさえ負ぶってもらったような記憶はほとんどない。だからこそ、この圭介の背中は羞恥もあるが心地よかった。
「…お兄ちゃん、ありがとう」
 呟くように真由子は言う。
「おまえがあっこにおる間は運命共同体やからな。気にすんな」
 圭介はそう言うと、真由子を負いなおした。

 真由子ははやりというか時季外れの風邪だった。解熱剤の注射を打たれ、山ほど薬を出されて自宅療養という運びになる。
 マンションの部屋に戻ってくると、真由子はまたパジャマに着替えて布団の中で横になる。こんな高熱を出したのは記憶にある限り初めてだ。
「真由子、食欲あるか? 朝食ってへんねんから、なんか食うか?」
 聞いてくる圭介に、真由子は苦笑いを浮かべる。
「少しなら食べれるやろうけど、ええよ」
「粥くらいやったら作れんぞ」
 その圭介の言葉に、真由子は驚く。
「お兄ちゃんお粥作れんの!?」
「3年自炊しとおねんからな。粥くらいやったらなんとかなるわ」
 圭介はそう言って、ニッと笑う。
「とにかく寝とれ。作ってくるから」
 そう言って、圭介は台所へ姿を消した。
(なんか嬉しいなあ…)
 真由子はそう照れ笑いを浮かべると、布団を被って横を向く。いつも、誰かになにかをしてあげることを良しとしてきたが、してもらうのも悪くないなと思う。そう思うと、軽く身体を起こして流しで調理を始めている圭介の背中を見つめた。
(ずっと、お兄ちゃんの側にいたいな…)
 このまま、ずっと二人きりの世界で。
 真由子はそんな自分に苦笑いを浮かべると、再び身体を横たえた。


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