熱を出した日 ネツヲダシタヒ

 9月の末というのは、一年でもっとも体調管理が難しい時期のひとつだ。「暑さ寒さも彼岸まで」のことわざの通り、彼岸を過ぎた街は急速に秋の気配を強めている。
 そんな中、菟原高校の記念祭第1日目がやってきた。
 と言っても、それは全員に等しくやってくるわけではない。知事杯に参加する陸上部所属の生徒たちには、初日の体育祭は来ないのだ。その陸上部所属の真由子の体調は、芳しくなかった。いつものように6時の目覚ましに起こされてその目覚ましを止めたが、身体が異様に重い。起きあがるのも辛いほどだ。目の前がボーっとして頭がガンガンと響く。
「風邪ひいたかな…」
 病は気からの言葉どおり、呟いた言葉を耳から取り込み、脳が認識したことで一気に症状は悪化する。真由子は意識を失うように、また布団に倒れ込んだ。
 圭介が起きたのはそれから1時間ほどあとのことだ。
 起きて目が少しずつ覚めてくると、異変に気づく。
 いつもなら朝食の用意でバタバタしている真由子の足音が聞こえない。確か出発時間は同じだったはずと思い直して、部屋を出た。
 台所はまだ暗く、朝食も弁当の用意もされていない。真由子の部屋からは物音もしないのだ。
「真由子、入んで〜」
 圭介は一応そう断っておいて、しばらく返事がないのを確認してから部屋のドアを開けた。
「真由子〜、おまえ知事杯やろうが。起きろよ〜」
 真由子が寝坊なんか珍しいなと思いながら、圭介は布団から出ていた真由子の肩に触れて気づく。慌てて真由子の額に手をやった。
「…このアホ、無理して風邪ひきよったな」
 よく見ると、高熱で頬が真っ赤になっている。苦しそうに寄る眉と荒い息が、触れなくても高熱があるのだと教えてくれる。
「武藤んとこの妹もこないだ風邪ひいたって言っとったしな…」
 圭介は腕を組んで真由子を見下ろす。
「連絡入れといてやるか」
 圭介はそう呟くと真由子の部屋を出た。
 どう考えても知事杯に出場するのは無理そうだった。

 既に記念祭1日目である体育祭の準備がすんだグラウンドの片隅に、陸上部のメンバーは集まっていた。各人の荷物を持ち、軽くストレッチなどを始めているメンバーもいる。そんな中、北斗はひとりキョロキョロとしていた。
(斉藤のやつ、おらへんな…)
 真由子の明るい笑顔を探して、顔を右から左に向けると、ばちっと目があったのは由衣だ。
「佐竹先輩、どうしはったんです?」
 由衣はきょとんとした顔のまま、北斗にそう聞く。北斗は苦笑いだ。
「いや、斉藤がおらんと思ってな。ウチのエースが」
「そういやあ、そうですね」
 由衣もそう言ってあたりを見渡す。女性陣の中でも小柄な由衣だが、真由子はその由衣に輪をかけて小柄だ。場合によっては人垣に埋もれたかなとも思ってしまう。だが、どこをどう見ても、真由子の姿はない。
「揃ったか? 出発するぞ」
 顧問の矢作が校舎から出てきて部員にそう声をかける。その声に、由衣は精一杯手を挙げた。
「斉藤真由子がまだ来てません!」
「斉藤は高熱で欠席だ。さっき連絡があった」
「えっ!?」
 由衣と北斗が声を上げたのは同時だ。あの元気の固まりのような真由子が病欠、それもこんな記録のかかった大一番でというのは意外すぎる。
「あっちゃ〜、マユのアホ、やってもうたか」
 由衣は、額に手を当てて思わず空を仰ぐ。今年の面子なら楽勝だろうと踏んでいたのに。
「ホンマ、斉藤もついてへんな」
 北斗は苦笑いを浮かべながら、その気持ちに忍び込んでくる風を感じずにはいられなかった。

 陸上部が出発した頃から、準備に忙しい実行委員を中心とした一般の生徒たちも集まってくる。やがてかまびすしい状況になってくるのは、開始20分ほど前のことだ。更衣室で着替えたあと、ぞろぞろとクラスの応援席に集まってくる。各クラスの後ろには、名物である畳2枚分の応援看板が建てられていた。その集まる面々は、既に各クラスで決めたコスチュームを体操服の上に着ているメンバーが多い。
「なかなか上出来やんか。高橋にしては」
「してはは余計や」
 晶が作ったコスチュームを着込み、そう評価する潤一郎に、晶は思わず眉をつり上げる。
「もっと悲惨なの想像しとったわ」
「あんなぁ!」
 今にも一触即発な晶の横で、陽は圭介のために作ったコスチュームの入った袋を手にキョロキョロしている。
「高遠のヤツ、遅いな」
「もうすぐ始まっちゃうのに…」
 そう言いながら、晶と陽の視線は校門の方へ注がれる。なんだかんだ言っても今まで無遅刻無欠席の圭介が、急に遅刻とは考えにくいだけに、その表情は沈んだ。
「武藤くーん!」
「はい?」
 美幸ののんきな呼び声が聞こえ、潤一郎はマッハで振り向く。もはや条件反射と言ってもいいだろう。
「圭介が欠席みたいやから、男子の200m代わりに出たってくれへん?」
「高遠、休みなん!?」
 美幸の言葉に、晶がすぐに反応して声を上げる。予想外のところから声が飛んできて、美幸は目をしばたかせる。
「あ、うん。さっき連絡あったって。真由子ちゃんがすごい熱出して寝込んだらしいから、病院連れていくって」
「そうなんだ…」
 圭介のコスチュームが入った袋を両手に持ち、陽はそう呟いて俯く。頑張って作ったのだから、着てほしかったなと思うのは自然の理だ。
「残念やったな、陽」
「仕方ないね…」
 そう言って、陽は晶に苦笑いを返した。その苦笑いに、晶も苦笑いを返すしかない。今はなにを言っても慰めになりそうにないから。
「いける?」
「まっかせなさい! 俺が出れば、男子200mは2−Iの天下よ」
「ほな、頼むね〜」
 二人の後ろで、美幸と潤一郎のそんなやりとりもあった。

 2年男子の200mは、潤一郎が宣言どおり、普段は滅多に見せない運動能力の高さを見せつけて快勝した。
 2年女子400mリレーは、前評判では中学時代陸上の大阪府大会で100m5位の実績がある大音和美を有するD組の評価が高かった。それ以外には、各運動部の実力者を揃えたF組なども前評判は高い。
 その女子400mリレーに晶と陽、それに美幸も出る。出ると言うより、駆り出されたという方が正しい。クラスの選手選考で、女子はこの400mリレーに全てをかける方針で、クラスの100mタイム上位者をつぎ込んだ。それが、晶、陽、美幸なのだ。
「和美ちゃんが出てるなら辛いなあ…」
 従姉の和美の姿を見つけ、笑顔まで送られてしまうと、陽は苦笑いを返すしかない。彼女の脚の速さは幼い頃からよく知っている。
「Dの大音か? そんなに速いんか?」
 文化部である漫研所属の和美を、そうとは思わずに晶が聞く。
「中学2年時に、大阪府大会で100m5位」
「えっ? インハイクラスやん、それ!」
 後ろで聞いていた美幸もそう口を挟んでくる。
「順番どうする?」
「じゃあ、委員長がスターターで」
 聞いてきた委員長に、美幸は笑顔でそう返す。
「次があたしで、その次が葛城ちゃん。アンカーが高橋ちゃん」
 美幸はそうポンポンと勝手に順番を決めていく。呆然とする面々にはお構いなしだ。
「アンカーに向かって速よなってくから、負けへんよ」
「あ、うん…」
 誰もその言葉に逆らえず、顔を見合わせてそう頷くしかなかった。
 スタートの号砲が鳴ると、I組はそれなりにいいスタートを切れた。2番手で美幸にバトンが渡る。その美幸が、野球部のマネージャーで走り回っている体力にものを言わせて、トップに躍り出た。
「葛城ちゃん!」
 美幸の声と共に、掌にバトンが載ってくる。陽は勢いをつけた。すぐ真後ろでバトンを受けたのは、和美だったはず。
(負けたくないな…)
 陽は精一杯走る。
 既に、レースはこの第3走者でD組とI組のマッチレースとなっていた。
 コーナーの出口で、和美が陽に並びかける。
 体力のない陽は、ぐっとスピードが落ちた。
「陽!」
 バトンゾーンから、晶が大声で陽を呼ぶ。
 和美の身体が陽の前に出た。
「お願い!」
「おっしゃ!」
 2番手に落ちはしたが、D組の直後でアンカーの晶にバトンを渡すことができた。晶は、D組のアンカーに並びかけて、直線勝負にもつれ込ませていた。
「晶ちゃん、頑張れ!」
 陽も思わず声を上げる。
 晶の身体が、わずかに前に出てテープを切った。
『1着、I組。2着、D組、3着…』
 その放送が流れると、クラス席はわっと湧いた。もはや他の競技で活躍が望めないことはわかっていただけに、この盛り上がりは予定どおりだ。
「陽も速かったわ」
「和美ちゃんには勝てないよ」
 従姉妹同士はそう言い合って、お互いのクラスに散っていく。
「おつかれー!」
「やったやった!」
 四人がクラスに戻ると、他の女子生徒から手荒い歓迎が待っていた。それでも、勝ってこその歓迎なので、それは嬉しいものだ。しばらくして開放されたあと、晶と陽はクラス席の空いたところに腰を降ろしてお互い笑いあった。
「高遠くんが来てたら、よかったのになあ…」
「そやな」
 陽の遠い呟きに、晶は苦笑いでそう頷くしかない。一応、女子の花形競技で勝ったのだから。
「今日はとことんついてへんわ」
「ホントだね」
 そう言って、二人はまた笑いあった。


                                         

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