「おーし、今日はこれまでにしよか」
 時計を見上げて、潤一郎がそう宣言する。このあとには、たしかもう一組控えていたはずだから、迅速に立ち去らねばならない。
「おっしゃ、仕舞お仕舞お」
 健太も賢一もそう言いつつ、帰る準備を始める。
 陽も、譜面を鞄に仕舞い、他のメンバーが終わるのを待つ。
「さ、帰ろうぜ」
 圭介の言葉で、今日の練習は完全に締めくくられた。
「じゃあな〜」
 自転車で戻っていく圭介、健太、賢一と別れ、陽と潤一郎はJRの摂津本山駅へ向かう。
 陽はこの押しの強い潤一郎がどことなく苦手だ。彼が「種馬」とあだ名されていることから、友達であっても警戒する気持ちもある。もっとも、今の陽はただ純粋に潤一郎は晶のことが好きなのだと思っているだけに、以前ほどの警戒はない。
「葛城、駅まで誰か迎えにくんの?」
 摂津本山のホームに上がると、潤一郎はそう聞いてくる。その潤一郎に、陽は首を振る。
「やったら、俺が送ったるわ。前みたいなことあったら寝覚めが悪いからな」
 自分を親指で指さしながら笑う潤一郎に、陽は少し驚いてしまう。
「そう警戒すんなって。葛城に手ぇ出したりせえへんから」
 自分のわずかな表情の動きで心の中を読まれたことに、今度こそ大きく陽は驚いた。
 そこへ、京都行きの普通電車が滑り込んでくる。
「さ、乗ろ乗ろ」
 その陽に特に反応を示さず、潤一郎は陽を先導するように電車に乗り込んだ。ワンテンポ遅れて、陽が電車に乗り込み、ドアが閉まった。
 わずか一駅の距離。電車は会社帰りのサラリーマンが大半を占めているようだが、ロングシートの車内はまだ空席がたくさんある。その座席に座らず、潤一郎は乗り込んだ反対側のドア窓から外を見ている。その表情は笑顔だ。陽は、所以なくその横に並んで立つ。
 間近で背の高い潤一郎の横顔を見ていると、不思議な気持ちがする。
 潤一郎は、陽がこれまでに出会ったことのないタイプだ。兄の太洋とも、双子の弟の大洋とも、父とも圭介とも違うタイプ。圭介の友達でなければ、おそらく顔見知りにさえもならなかった間柄だろう。「種馬」と言うあだ名は、おそらくその言葉そのままを現しているのだろう。だからこそ、陽は隣で笑顔でいる潤一郎が理解できない。
(晶ちゃんのこと、どう思ってるのかな…?)
 ただの性行為の対象として見ているだけなら、正直なところ晶へのちょっかいはやめてほしいとも思う。晶は仕草や言葉遣いは男っぽいところが多く見えるが、内面は年相応の女の子であることを、陽はよく知っている。晶を、傷つけないでいてほしいと切に願うだけだ。
 わずか2分の距離は、あっという間に過ぎ去って電車は菟原駅に滑り込む。
 潤一郎は、やはり先導するように歩くが、歩くペースは陽に合わせてくれているようだ。コンパスが長く、歩くスピードが早いはずなのにと陽は苦笑いが浮かぶ。これが、「種馬」の能力なのかなと。
 駅を少し離れると、駅前の小さな喧噪は住宅街の静けさに取って代わる。小さな暗い防犯灯は、二人の影を心許なくアスファルトの上に撒いた。
「ねえ、武藤くん」
「ん?」
 突然声をかけてきた陽に、潤一郎はまるで予想していたかのようなスムーズさで振り向く。それは、あまりにも自然すぎる笑顔。
「晶ちゃんのこと、どう思ってるの?」
 陽にしては、思い切った言葉だと思う。春の頃の陽なら、例え晶が傷つきそうでも、そんな勇気などなかったはずなのだから。
「高橋? いきなりやな、葛城」
 潤一郎はそう言って笑う。だが、その笑顔には曇りがないように陽は思う。ただ、本当に突然の質問を笑い飛ばしたように。
「あいつはすぐムキになるから、からかうと楽しいわ。あれだけ遊びがいのある女、そうおらんで」
 そう言って、潤一郎はいたずらっ子の顔でニッと笑う。その表情に、陽は思わず眉を寄せる。
「その…、女遊びの対象として晶ちゃんのこと見るんだったら、やめてほしいなと思って…」
「友達思いやな、葛城は」
 今度は、潤一郎の顔に苦笑いが浮かぶ。晶の胸の奥の苦悩を知っているからこそ、陽の晶を思う気持ちは見ていて辛い。その無邪気が人を傷つけることを知らないのだと思うから。まっすぐな気持ちは、時に鋭利な刃物になることを、潤一郎は知っている。だからこそ、潤一郎はこの陽が苦手なのだ。
「やったら、高橋の代わりに俺の女になるか、葛城?」
 陽の鼻先に顔を近づけて、潤一郎はそう笑う。陽の顔が一瞬真っ赤になった後蒼くなった。
「冗談や。俺は素人さんには手ぇ出さへんの。高橋も立派な素人さんやからな」
 潤一郎は陽から離れると、そう言って笑う。
「女は後腐れないのがいちばん。こじれんのはお互いのためにならんからな」
「…ごめん、理解できない」
 陽は眉を寄せてそう呟くしかない。それに対して、潤一郎は涼しい顔だ。
「そらそうやろな。葛城は理解でけん方がええ」
「…種馬ってあだ名もホントなんだ…」
「そらご想像にお任せするわ」
 そう言って、潤一郎は背中を向けて歩き出す。だが、それは気分を害したわけでも、話を早く終わりたいからでもないらしいことだけは陽にもわかった。
 それから、会話らしい会話もないまま、陽の家の目の前に到着する。
「じゃ、また明日な」
「うん。送ってくれてありがとう」
 笑いかける潤一郎に対して、陽には笑顔はない。
「武藤くん。晶ちゃんを傷つけないで。お願い」
 軽く潤一郎を睨むようにして、晶はそう言いきる。陽が見せたことのない意志の強い瞳に、潤一郎は心の中で苦笑する。
「善処するわ。まあ、からかうくらいは勘弁してな」
 潤一郎はそう笑って、軽く手をふり陽に背を向ける。背中で、ドアの閉まる音が聞こえた。小さくため息を一つついた後、潤一郎は顔を上げる。
「…よう辛抱してくれたな」
 潤一郎の視線が厳しくなる。その視線の先から、ひとりの男が姿を現せた。
「あんた、つきあう女選んだ方がええで。あんな尻の軽い女やったらあんたには辛いわ」
「うるせえ! とっかえひっかえの癖に人の女寝取っといてようゆう!」
 殴りかかってくる男の拳を、潤一郎はこともなげに左手で掴む。
「何でも力ずくってのは感心せんなあ」
 そう笑いながら、潤一郎は男の右腕を払う。
「俺は別に誘ってへんで。あんたの彼女が誘ってきたから、据え膳はありがたくいただいただけやん」
 からかうように言って、潤一郎は呆然とする男にニッと笑う。
「悪いけど、こっちはいろいろと危ない橋も渡ってきてんやわ。なめんとってんか」
 潤一郎の表情から、笑みが消える。

「あ〜ら、晶ちゃんいらっしゃい!」
「こんちは! 今日はよろしくお願いします!」
 翌日の放課後、晶は陽の家を訪れて、陽の母に頭を下げていた。もちろん、あの体育祭のコスチューム作りを陽の母に教わるためだ。
「あらあら。陽も家事はまるでダメだから、なにも気にしないでね」
 陽の母はそう言って居間で苦笑いの陽と晶を並べて講師を始めていた。
 陽の母に教えてもらいながら、陽と晶は額をつきあわせるようにして生地と格闘する。ようやく服らしくなった頃には、日も暮れそうになっていた。
「できたーっ!」
「お疲れ様、晶ちゃん」
 コスチュームを目線よりも高いところに掲げ、笑顔で子供のように宣言する晶に、ほんの少しだけ先に完成していた陽は優しい笑顔を送る。
「ホンマ、おばちゃんのおかげやわ。まともなモンになった」
 できあがったコスチュームを床に置くと、晶はほっと息をついて苦笑いを浮かべる。ところどころいびつな自分のものと比べると、陽が作ったものは細部まで丁寧だ。だが、歪みはどちらかというと陽の方が大きく、お互いの性格の差を見たような気がして晶は苦笑する。
「ま、これで武藤にもゴチャゴチャは言われへんやろ」
 晶はそう言うと、適当に畳んでコスチュームを持ってきた鞄に入れる。その横で、陽は丁寧に畳んでいた。
「そう言えば、武藤のやつ、昨日今日と休みやったな」
 陽がコスチュームを畳むのを見ながら、晶は呟くように言う。
「そうだね。武藤くんが休みなんて珍しいね」
 言いながら、陽は苦笑いだ。おそらく、潤一郎と最後に会ったのは自分だと思うから。
「一昨々日の練習には来とったんやろ?」
「うん。帰りに家まで送ってもらったから間違いないよ」
 それでもまだ苦笑いなだけに、晶は怪訝な表情を浮かべる。
「そん時になんかあったんか?」
「ちょっとキツいこと言っちゃった」
「キツいこと?」
 眉を寄せ、困ったように言う陽に、晶は訳がわからずに聞き返す。
「うん。晶ちゃんを女遊びの対象として見ないでって」
「へ?」
 我ながら間抜けな声を出したと思う。陽の言葉は、晶にしてみればそれほど突拍子もないことなのだ。
「あらへんあらへん! あいつかて、相手くらい選ぶがな」
 陽の不安を笑い飛ばすように、晶は苦笑いを浮かべながら顔の前で右手を振る。
「でも…。武藤くん『種馬』なんてあだ名あるし、晶ちゃんへのからかいかた見てると、本気じゃないとやだなって…」
「あたしと武藤がそんな関係なんて想像もつかんわ」
 晶は陽の心配に小さく苦笑いを浮かべると、陽を諭すように優しく言う。
「心配せんでも、大丈夫やって。あいつもそこまで鬼畜やないやろし、あたしもそこまでアホちゃうから」
「うん…」
 それでもまだ不安そうに、陽は晶を見つめる。その陽に、晶はニカッと笑って見せた。
「大丈夫やって。武藤のことは信じんでもエエから、あたしを信じ」
 言いながら、晶は空々しい言葉だなと自分で思う。陽を出し抜こうとは思わないが、今の自分ほどこの言葉が似つかわしくない人間はいないんじゃないかとも思ってしまう。
「うん、わかった」
 そう素直に笑顔を返してくる陽が、羨ましくもあり妬ましくもあった。
「紅茶入れてくる」
「サンキュ」
 笑顔で立ち上がった陽に晶が笑顔を向けた時、居間の電話が鳴った。いちばん側にいた陽がその受話器を上げる。
「はい、葛城です」
『よう、葛城。武藤潤一郎や』
「武藤くん!?」
 受話器から余りにも普段通りの潤一郎の声が飛び込んできて、陽は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。その慌てぶりに、晶も思わず陽に注意を向けてしまう。
「ど、どうしたの? 電話くれるのも珍しいけど、休むのはもっと珍しいから…」
 潤一郎に投げつけた言葉を思い出して、陽はついどもってしまう。それでも、潤一郎の調子は普段と変わらないようだ。
『ああ、休んだんは妹が時季外れの風邪なんかひいて大熱出しよったからな。病院連れてったりいろいろと忙しかったんや』
「そ、そうなんだ…」
 潤一郎の言葉を聞いて、陽はホッとしてしまう。信用はできなくても、気まずくなるのは嫌だったのだ。
『それより、弟おるか? 葛城大洋』
「大洋? いるはずだけど…。ちょっと待ってて」
 陽は受話器を置くと、電話の前を離れる。
「武藤、なんて?」
「大洋に用があるみたい」
「弟に? あの二人に接点なんかあったんかいな?」
 言いながら、晶は首を捻る。目立つという意味では共通しているが、方向性はまるで反対な二人だからだ。
「わかんない。とにかく呼んでくる」
 晶が頷いたのを確認してから、陽は階段を駆け上がる。大洋の部屋の前で、声を上げた。
「大洋! 武藤くんから電話だよ!」
「はいなはいな」
 おどけるような返事のあと、大洋が部屋から出てきた。
「陽のクラスの武藤潤一郎やな?」
「そうよ。早く」
「ほいほい」
 言いながら、大洋はトントントンと小気味よく階段を下りていく。大洋が受話器を取ってしまうと、もう陽にも晶にも会話の内容はわからない。
「しっかし、武藤と弟の繋がりってなんやろな?」
 陽が戻ってきてからも、晶はまだ首を捻っていた。陽は、その晶に苦笑いを返す。陽にも、あの二人の繋がりはまったく理解ができない。

「お邪魔しました〜」
「晶ちゃん、気をつけてね」
 玄関で陽に見送られ、晶が陽の家を出たのは夕方だ。まだ落ちきらない夕陽で、周囲はオレンジ色に染まりはじめている。
(しっかし、武藤があたしとな…。陽も心配しすぎやで)
 晶はそう思いながら空を見上げた。オレンジとグレーに染まった雲が、ゆっくりと東へ流れていく。
(あたしの想いは、どこへいくんやろ…)
 圭介の側にいようと、なけなしの勇気を振り絞って歩き始めた陽。その陽の横で、同じように圭介に向けて膨らみはじめた想い。それと同時に自覚する陽への負の感情。
(ダメやなあ、あたし…。どんどん後ろ向きに進んでってる)
 晶は嘆息すると首を垂れる。
 陽と出会って3年。
 こんな気持ちは初めてだった。


次のページへ
前のページへ
戻る