不協和音 フキョウワオン

 スタジオ・レッドスターは、通称岡本坂と呼ばれる、阪急岡本駅へ向かう坂の途中にある。岡本には何度も来たことはあるが、このスタジオは初めてだ。と言うより、こんなところにスタジオがあることすら陽は知らなかった。
 地図と建物を見比べて呆然としていると、陽は不意に肩を叩かれた。
「よっ」
 振り返ると、圭介だ。
「高遠くん…」
「こういうとこ、初めてなんやろ? 行こや」
 圭介は、陽にそう言って建物の中に入っていく。陽も、慌ててその後を追った。
 スタジオにはいると、潤一郎をはじめとする他のメンバーは既にそろっており、銘々がチューニングの真っ最中だった。
「よお!」
「高遠、来たか。葛城も」
 軽く手を挙げる圭介に、潤一郎が早速反応する。他のふたりも手を挙げて応えた。
「新メンバー! 葛城陽!」
 潤一郎が茶目っ気たっぷりに、残りのふたりに陽を紹介する。圭介に肩を押され、陽は一歩進んで頭を下げた。
「よろしくお願いします…」
「ドラムは、F組の中倉健太。ベースは、J組の朝田賢一」
 ふたりは、そう紹介されると、それぞれの手持ちの楽器を掲げて、陽への挨拶に代えた。
「早速やねんけど、この曲弾ける?」
 潤一郎は、そう言いながら、陽に1曲の楽譜を渡す。タイトルには「恋心」と書いてあった。
「ピスケスの曲だよね? ドラマの主題歌だったやつだ」
 楽譜にさっと目を通した後、陽はそう言って背の高い潤一郎を見上げる。
「そっ。ご明察。その様子だと弾けそうやな」
「なんとかなると思う」
 いつもの一歩引いた感じと違い、陽には自信があるように見えた。その姿に、驚くと同時に潤一郎は得たりと笑う。
「おっしゃ、ほんなら早速合わせよか。頼むで、葛城」
 潤一郎の言葉に、陽はうなずいてキーボードの前に移動する。鍵盤に軽く指を落とすと、気持ちは更に落ち着いた。
「恋心」は、比較的アップテンポのナンバーだ。男女ふたり組のピスケスの内、男性ボーカルである神崎優路が歌っていたはずと思い出す。健太がスティックを鳴らすと、陽も絶妙のタイミングで曲に入った。
(やるやん)
 潤一郎は、思わぬ拾いものに、勝利の確信を強くする。
 これなら、ギター研究部の鼻をあかすこともできそうだ。
(すごい…)
 陽は、キーボードを弾きながら、目の前で歌う圭介の姿に圧倒されていた。いつもの、何事にもやる気のなさそうな雰囲気はみじんもない。それよりも、本当に音楽の知識がないのかと思うほど、歌う姿もその内容もレベルが高い。
(大洋と同じなのかな)
 同じく音楽の知識がまるでない双子の弟も、圭介のように歌は抜群にうまいのだ。その圭介につられるように、どんどん一体感は広がっていく。
「やるやん、葛城さん!」
「これで今年は貰たな」
 健太と賢一はそう言って、陽を称える。潤一郎も満足そうにうなずいた。
 陽が圭介を見ると、圭介はニッと笑い返す。陽も、嬉しそうに笑顔を返した。
「じゃあ、早速、こっちも覚えてもらおか」
 潤一郎はそう言って、もう1曲の楽譜を取り出す。
「『エバー・グリーン』か。ピアノがメインの曲やないか」
 圭介が苦笑いを思わず浮かべる。
「いきなりやな、武藤」
 賢一と健太も苦笑いだ。
「知っとお、葛城?」
 聞いてくる潤一郎に、陽はこっくりうなずく。
「弾いてみようか?」
「頼むわ。この曲はめっちゃ盛り上がんねんけど、キーボードが命やからな」
「ちょっとだけ、時間ちょうだいね」
 そう言って、陽は潤一郎から楽譜を受け取る。
 キーボードの前に座り、譜面台に楽譜を載せた。音符を目で追いながら、軽く指を動かしていく。
「じゃあ、いくね」
 出だしから、力強いキーボードの音が響く。キーボードがメインを取る楽曲だけに、力負けは許されない。
「へえ…」
 感嘆の声がもれる。
 それは圭介も同じだ。
 普段の、あの気の弱そうな陽の姿はそこにない。
 そこには、音楽を愛し、演奏を楽しむひとりの少女の姿があるだけだ。いつもの陽にはみじんもない躍動感が、彼女の心をよく現していた。
 弾き終わると、誰ともなく拍手が起こる。
「いやあ、最高やね」
「ホンマホンマ。エバーをまともに弾けるヤツはじめてみたわ」
 賢一と健太の誉め言葉に、陽は照れて苦笑いを浮かべる。
「俺も歌い負けせんようにせんとな」
 陽にそう笑うと、圭介はパンと手を叩いた。


 記念祭まで残り二週間という頃になって、体育祭で着るユニフォームの型紙と生地が配られた。まだ女子にしか家庭科がなかった当時、作製は女子の分担だ。
「とうとう来てもうた〜」
 型紙を受け取ると、晶は机に突っ伏す。陽も、その姿を見て苦笑いだ。
「明日にでも、ウチで作ろっか。お母さんに言っとくし」
「ホンマなあ…。早よ作ってまわんと、後になったら絶対しんどい」
 ようやく顔を上げた晶は、そう言ってため息をつく。成績優秀、スポーツ万能の彼女たちの唯一の弱点がこの家庭科なのだから。
「よし! 明日は陽んとこのおばちゃんに、しっかり教えて貰て、作ってまうぞ!」
 起きあがって握り拳を作る晶に、陽は苦笑いを浮かべた。
「なに気合い入れとん?」
 声に振り向くと、圭介だ。横では北斗も優しげな笑みを浮かべている。
「ああ、高遠か。体育祭で着るユニフォームの生地と型紙や」
 晶はそう言って生地と型紙を掲げる。
「ああ、毎年恒例のやつな。大変やろけどよろしく頼むわ」
 そう言って圭介は笑う。
「期待すんな。あたしも陽も、家庭科ボロボロやねんから」
 晶は苦笑いを浮かべ手を振る。陽も苦笑いを浮かべるしかない。この返答には圭介も答えに困る。北斗と顔を見合わせて苦笑いだ。
「ま、とにかく頼むわ。葛城、今日の練習来るやろ?」
「うん、行く。この間もらった譜面も返さなきゃいけないし」
 圭介に振られ、陽は笑顔を返す。その笑顔が以前よりも明るく、晶は胸が痛い。
「武藤はどうしたんや?」
 その胸の痛みを払うため、晶は話題を変えた。いくら親友でも、あの笑顔は見ていて辛い。
「ああ、あいつなら先にスタジオに行ったわ。オーナーとなんや打ち合わせする言うてたな」
 圭介は、そんな晶の様子にも、陽の笑顔にも気づかず、いつものように晶にも笑顔を向ける。その笑顔を嬉しいと思う反面、やはり小さな棘が胸に刺さるのは否めない晶だ。
「ほんじゃな。高橋はまた明日」
「あ、ああ」
「葛城はあとで」
「うん」
 そう言い合って、圭介は教室を出て行く。北斗も二人に軽く手を振って教室から出て行った。
「あたしらも帰ろか、陽」
 一息ついたあとでそう言う晶に、陽は小さく頷いた。


                                         

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