線香花火 センコウ ハナビ 祭りというものは、人の気持ちを高揚させる効果を持つ。 良いにつけ、悪いにつけ。 楽しみにしている人は、それこそワクワクして落ち着かないことだろう。逆に、鬱陶しく思う人にとっては、イライラの原因にしかならない。 ただ、この部屋の人物にとっては、そのどちらにも当てはまらないだろう。 この部屋の主、葛城陽にとっては。 陽は、朝からぼーっとしていた。 暑さのせいで、夏バテ気味なのもある。 だが、今日はそんなことを吹き飛ばす出来事があるのだ。 圭介と、約3週間ぶりに会える。 昨日の電話のあと、興奮してしまってなかなか寝付けなかった。 それが、この「ぼーっ」の原因だ。 早い話が寝不足なのだ。 陽は元々体力のある方ではない。だから、眠い。 久しぶりに会えるという嬉しさは、身体の疲れを吹き飛ばしてあまりある。それでも、陽の体力は、午前中いっぱいをドキドキして過ごすだけで終わらせてしまっていた。 「高遠くんと、花火かあ…」 そう思うだけで、体温が上がったような気になる。もちろん、仲のいい晶や、オモシロ男友達の潤一郎に北斗も一緒だ。それでも、陽の頭は圭介のことでいっぱいになってしまっていた。 去年の花火は、晶と見た。 その時は会場まで行かず、近所の公園でブランコに揺られながら遠くの花火を見ていただけだ。 今年は違う。 花火の始まるずいぶん前から会場に出向き、クラスで仲良くなった仲間たちと回るのだ。 今まで見た3回の花火と同じだとは思えない。 幼少の頃、関東で見た花火は、いつも家族と一緒だった。 優しい両親と、いつも陽を引っ張ってくれていた兄。一風変わった性格の双子の弟。 その中で過ごすことが、いつしか陽のすべてになっていた。 そこから陽を引っ張り出してくれたのが晶であり、圭介だった。 「楽しくなるといいな…」 陽はそう呟きながら、窓の外を見た。 昨日の昼間に雨を降らせた雨雲は遠くに去り、蒼い空と碧の稜線が、綺麗なコントラストを描いている。 山と海の街。 陽はこの街が好きになっていた。 この街に越してきてくれた両親に、感謝の気持ちすら覚える。 陽は大きく深呼吸した。 晶と圭介の笑顔が浮かんで消えた。 「さ、そろそろ準備しよ…」 陽はそう呟くと、鏡の前に腰を降ろす。 首のうしろでまとめていた髪をほどく。 柔らかなウェーブのかかった髪が落ち着きをなくし広がる。 ふっと美幸の長い髪が思い出された。 サラサラのストレート、風になびくロングヘア。 (わたしも、あんな綺麗な髪がよかったなあ…) パーマを当てていなくても、自然にウェーブを描く髪。長さは美幸と大差ないはずだが、美幸の髪のように、舞うように風になびく髪ではない。引っ越す前の中学では個性を否定された髪。ここに越してきて、初めて伸ばすことが許された髪。 (高遠くんと幼なじみかあ…。いいなあ、柴田さん…) 肩より前にこぼれてきた一房を手にとって眺めながら、陽は呟きそうになる。 前向きで明るく、天然だとかなんだとか言われても、とかく目立つ美幸。圭介とも砕けた関係を持っている。陽には羨ましく思えるものばかりだ。ないものねだりなのはわかっているが、止められない気持ちもある。憧れに似た気持ち。それがまた、陽の劣等感へとつながっていく。 鏡の中の自分にひとつ小さくため息をつくと、陽はもう一度広がった髪をまとめた。そのまま、丁寧に丁寧に結い上げていく。いつもと違う自分を、ただ圭介に見てもらいたい一心で。結い上げた髪をアップにし、数少ない手持ちのヘアアクセサリで止める。軽く頭を振って、ずれや崩れが起きないかを確認する。 「うん」 陽は鏡に向かって微笑んでみた。 今日も、同じように笑えるように。 そうして、服を脱ぎ捨て、新しい浴衣の袖を通した。 今日のために新調した浴衣だ。 今までは晶を代表する友達や母が選んだり見つくろってくれることが多かったが、この浴衣だけは自分で選んだ。自分に似合うと自分で思える、自分の色だと思える浴衣を選んだ。圭介の目に、少しでも自分の姿が焼き付くようにと。 ようやく着替え終わった頃、玄関のチャイムが鳴った。 「陽〜。晶ちゃん来てるわよ〜」 「は〜い!」 陽は母の声に返事をすると、立ち鏡の前でもう一度自分の姿を見た。おかしいところは何もない。 「よしっ。行ってこよう…」 陽は自分に言い聞かせるように呟くと、部屋を飛び出す。すると、同じように部屋を出てきた双子の弟、大洋とバッタリ会った。 「あれ、えらい気合い入ってるやん、陽」 頭の先からつま先までをじーっと見て、大洋はニヤニヤ笑いながらそう言う。 「わ、悪い?」 「ぜ〜ん然」 少し赤くなって唇を尖らす陽に、大洋はそう意地悪く笑う。 「花火見に行くんか?」 「うん。晶ちゃんとかクラスの友達と。大洋も行くの?」 「俺は部活の連中と岡本の夏祭りにね。メンバーの家が店出しとおから、冷やかしにな」 そう言って、先に階段を下りていた大洋がふっと振り返ってにっと笑う。 「エエやん。可愛いんちゃう、陽」 「大洋に言われても嬉しくないよ」 「へえへえ」 そう言いながら、大洋はタンタンと足取りも軽く階段を下りきった。 「ま、頑張ってきいや。エエ報告期待してんで」 ニヤニヤ笑う大洋に一睨みしてから、陽は下駄に足を下ろした。冷たい木の感触が心地よい。 「行ってきまーす!」 そう奥に声をかけて、陽は玄関を開いた。 「お待たせ、晶ちゃん」 「おーっ、かわいいやん陽」 門を出た陽を見たなり、晶はそう相好を崩す。 「晶ちゃんも、すごく似合ってるよ」 陽もそう晶に微笑みを返した。 いつもの少年ぽい表情は抜けないが、目の前にいるのは紛れもなくひとりの女性だ。それも、陽のように自信のない笑顔ではない。浴衣に着られているのでなく、浴衣を着こなしているとでも言えばいいだろうか。普段の晶とは、服装が替わっただけだというのに、このあでやかさはどうだろう。 「なんか、晶ちゃんちょっと色っぽい…」 「えっ!?」 晶は陽にそう言われて、慌てて浴衣に着崩れがないか確認する。その頬が予想外の言葉に紅潮していた。 「な、なんや。着崩れかなんかあるんかと思たわ」 「違うよ。ホントにそう思っただけ」 ほっとした表情を見せる晶に、陽は笑顔を向ける。 「陽にそう言ってもらえたら嬉しいわ。あたし、舞台でも少年役ばっかしやからな」 晶は照れたように笑う。 その姿や仕草は、普段の晶とは明らかに違う。 服がもし魔法を持つなら、浴衣は明らかに晶に魔法をかけていた。 いつもは、かたくなに意地を張り、自分の弱さを見せようとしない晶の、心の殻を融かしていた。 「髪、アップにしてきたんやな」 晶の言葉に、陽はこっくり頷く。 「エエなあ。あたしはこの長さやから、いじることもできんしなあ」 晶の苦笑いに、陽は笑顔を返す。 「みんな、遅れずに来るかな?」 「そりゃあ来るやろ。特に武藤は絶対に遅れへんわ」 そう言って笑う晶に、陽も声を上げて笑った。 それなりに山手にある陽の家からは、市内を回るバスに乗るのが手っ取り早い。そのバスも、停留所をひとつ過ぎるたびにだんだんと混んできた。 「すごい混みようやな」 「会場、潮見中学だよね」 ラッシュアワーのようなバスの車内で、ふたりはそう囁きあった。バスがカーブを曲がると、どーっと人がふたりの方にも押し寄せてくる。押しつけられた背中にもぞもぞしたものを感じて、晶は振り返った。 「あ、晶さん!」 そこには、完全に人波に飲み込まれてつぶされている真由子の姿があった。 「ま、真由子ちゃん!?」 予想外の人の姿に、晶は目を白黒させる。 「なんや、高橋、そこにいたんか」 斜め後ろからは、圭介の声までした。 「みんな、このバスだったんだ…」 背伸びして晶の肩越しに圭介の姿を見つけると、陽はそう笑う。 「俺らは阪神菟原からやけどな」 その時、またバスがカーブを曲がり、車内は大きく揺れた。 「むぎゅーっ!!」 真由子が人に挟まれて声を上げる。 背伸びしていた陽はバランスを崩して晶にもたれかかった。 そうして更にバランスを崩した晶を、圭介が受け止める。 「わ、悪いっ、高遠!」 「気にすんな。どうせ誰かが受け止めてるわ、この混みようやと」 慌てて圭介から離れた晶は、赤くなった顔を陽に見られていないか、内心冷や冷やものだ。だが、陽を振り返ると、陽はいつもどおりにっこりと笑っていた。 そうして、バスは若葉町のバス停に到着した。 「よお、来たか」 バスから吐き出される人の中に、潤一郎はあっさりと圭介たちの姿を発見して声をかけてきた。 「早いな」 「あったり前やん。浴衣美人がぎょうさんおるんやで。少しでも堪能する時間は長い方がええやん」 圭介の言葉に、潤一郎はそう言って笑う。 「さいでっか」 その言葉に、圭介も北斗もさすがに呆れ顔だ。 「おっ! 高橋も葛城もあでやかやなあ。さすが、女の子。浴衣着てくるように言うただけのことはあるわ!」 潤一郎の言葉にさすがに晶も陽も照れた。特に晶は普段女性扱いされることが少ないだけに、あさっての方向を向いて照れ隠しをしていた。 「真由子ちゃんは、普段着やな」 「お兄ちゃんに浴衣買うてって言うたんですけど、買うてくれんかったんです」 「高遠、そりゃあいかんわ」 「武藤は関係あらへんやろ」 そこから、北斗も加わっていつものコントのような会話が始まる。 「相変わらず楽しいね」 そう晶に耳打ちする陽に、晶は苦笑いを返した。 「あれ?」 だが、その中でじっと北斗の様子を見ている真由子の背中に気づく。その表情は少し物憂げに見えた。 「真由子ちゃん、どうかしたんか?」 「え? あ、なんでもないです」 急に声をかけられた真由子は、一瞬驚いたあと、さっと笑顔を作って見せた。晶は少し怪訝な顔を見せる。晶には、真由子の表情の意味はわからない。 (先輩がぎこちなくなかったらいいけど…) 部活の間は、もう普段どおり話すことはできる。それでも、こうして仲の良いメンバーだけで集まったらどうなってしまうのか、それだけが不安だった。 「いつまでもコントやっとらんで、エエ加減行くで」 晶がそう声をかけると、まず潤一郎がぴたっとやめた。 「ようし、行こ行こ。浴衣美人が待っとおからな」 「現金」 「俗物やなあ…」 圭介は不機嫌そうに、北斗は呆れたようにそう言って、歩みを中学の方へ向ける。 「行こう、真由子ちゃん」 「はいっ」 陽にそう声をかけられた時、真由子はようやく普通に笑えた。 今は、とにかく楽しもうと割り切れた。 |