バスは国道310号線を南下し、五條市の市内へ入った。目指す合宿所はもうすぐだ。
「おっしゃぁ! 着いたーっ!」
 バスを降りるなり、北斗は伸びをしながらそう声を上げる。
「相変わらず陸上バカ丸出しやな、佐竹は」
 あとから降りてきた大輔に、北斗は振り返るとにかっと笑う。
「早よ走りとおてウズウズするわ」
「心配せんでもすぐに思いっきし走らしたるわ。すぐに着替えて、競技場で集合やからな」
 引率の矢作は笑いながらそう言って合宿所に挨拶に行った。
「ま、合宿明けは県の地区予選やしな」
「そう言うこと。ここで調整しとかんかったら、記録もへったくれもあれへんからな」
 あまり乗り気でなさそうな大輔に、北斗はそう言って笑った。

 練習時間というのは、集中すれば集中するほど早く過ぎていく。
「おーっし、今日はこれまでーっ! 各自クールダウンしとけよーっ」
「へ? もう終わり?」
「早いですね」
 北斗と真由子は、矢作の声にお互い顔を見合わせる。
「なんか、まだ走り足らん気がすんなあ…」
「あと5キロくらい走っときたいですね」
「しゃあない、軽く流して上がろ」
 そう言って、北斗は走り出す。その後ろ姿を眺めてから、真由子は由衣に声をかけた。
「由衣ちゃ〜ん! わたしたちも流して上がろ〜!」
 真由子の声に、由衣は笑顔で頷いて駆けよってくる。
「早よ終わらして、晩ご飯食べよ」
「そうそう。晩ご飯食べて、お風呂入って、寝よ!」
 ふたりはそう笑いあいながら、走り出した。その前では、同じように北斗と大輔が馬鹿笑いしながら走っていた。

「上げ膳据え膳ってやっぱり楽やわ〜」
 夕食が終わり、風呂もすんで部屋に戻ってくると、真由子はそう言って大きく伸びをした。
「マユが言うと、すっごい実感こもってるわ」
 由衣はそう言って笑う。
「でも、明日は洗いもん当番あたしらやで」
「それでも、作らんでエエだけマシ」
 真由子はキッパリとそう言う。その表情と言葉に由衣は笑った。
「それにしても、一番ちっこい部屋や言うても、1年女子ふたりだけやから気楽でええわ〜」
「それは言えてる。先輩らと一緒でもなんか気使うしね」
「とにかく寝よ寝よ〜」
 真由子はそう笑いながら電灯を消す。部屋の明かりが消えると、街灯の青白い明かりだけが部屋の中を照らした。いつも住んでいる神戸を遠く離れたと思わせてくれる虫の声が、試合が近いのだという気分を高ぶらせてくれる。
「ね、ね、マユは誰か好きな人おんの?」
 寝ようと思って眼を閉じた瞬間、由衣がそう声をかけてきた。
「…突然やね」
「こんな時くらいしか聞かれへんもん。ね、おんの?」
 枕に肘をついて真由子を見つめる由衣の表情は好奇心でいっぱいだ。
 真由子は思わずその由衣から顔を逸らしてしまう。視線は宙をさまよった。
 思い浮かぶ人の姿は確かにある。だが、それを言葉にはしたくなかった。
「いない」
 真由子は由衣の方に再び顔を向けると、苦笑いしてそう答えた。嘘だが、見破られるはずはなかった。何より、由衣のよく知らない人物だからだ。
「え〜、そうな〜ん」
 そう言う由衣は、唇を尖らせて不満顔だ。
「そうなんって言われても、おれへんもんはおれへんもん」
 真由子もそう言って同じように唇を尖らせる。嘘をついていることだけは悪いなと思いながら。
「そっか〜。そりゃあ残念やわ〜。根ほり葉ほり聞こう思っとったのに」
「でも、わたしに振ってきた言うことは、由衣ちゃんはおんねやろ?」
 そう言ってにやっと笑う真由子の視線の先で、少し驚いた由衣の顔は、みるみる赤くなっていた。
「誰? 誰?」
 由衣の顔に肯定のサインを見て取った真由子は、思わずそう詰め寄る。
「誰にも言わへんか?」
「言わへん言わへん」
 真由子がそう言うと、由衣は一呼吸置く。
「佐竹先輩や」
「へっ? そうなんや」
 真由子は正直なところ驚いた。どちらかといえば活発な由衣は、陸上以外のことでは温厚でからきしに見える北斗はないだろうと思っていたのだが見事に外れた。
「かれこれ片思い3年目」
 照れたように笑いながら、由衣はそう言う。
「そう言えば由衣ちゃんも中学山中やったっけ」
「そうそう。佐竹先輩と一緒」
 由衣はそう言って笑う。その素直な笑顔が、真由子には少し羨ましく見えた。
「陸上やっとお時だけは格好ええからね、佐竹先輩」
「あ、それはわかるわ」
 そう言ってお互いに笑いあった。
「けど、モテそうやからなあ、佐竹先輩」
「そうかも知れへんなあ」
 真由子は、そう言って窓の外を見た。普段はおっとりしているようにすら見える北斗だが、ひとたび陸上のことになると人が変わったかのようになるのだ。とことんまで自分を痛めつけようとするストイックな壮絶さは、ある意味人に訴えかけるものがあるように感じる。その割に成果が上がらないところが、不器用そうに見える北斗らしいと言えばらしいのだが。
(きっと、由衣ちゃんも佐竹先輩のそういうところに惹かれたんやろなあ…)
 真由子はそう考えると自嘲気味に笑った。どうにも、北斗の普段とのギャップの大きさと熱血時の暑苦しさは、先輩後輩としての間柄以上のものを自分には感じさせてくれない。所詮、真由子と由衣では好みも育ちも違うのだ。
「でも、かなうとエエね」
「ホンマにな。ライバル多そうやけど」
 真由子の言葉に、由衣はそう言って笑った。その目の前の人物が、北斗の思い人であることは知らずに。

 朝が来た。
 真由子はいつもの癖で、目覚まし時計が鳴った瞬間にその目覚まし時計を叩いて止めていた。
「ん〜〜〜っ」
 布団の上に座って大きく伸びをすると、もとより目覚めの良い真由子の頭は既にスッキリと冴えている。その冴えた頭が、窓の外の物音を認識した。真由子はカーテンをそっと開いて、階下をのぞき込む。そこには、一人早起きでストレッチをしている北斗の姿があった。
(ふえ…? 佐竹先輩もう起きてるんや…)
 目覚まし時計の針はまだ6時を少し回ったところだ。隣の布団でとても人には見せられない寝姿で爆睡している由衣とは比べようもない。
 やがて、一通りストレッチのすんだ北斗は、ランニングに行ったのかその視界から消えた。
(らしいって言うのか、なんて言ったらええのか…)
 真由子は苦笑いを浮かべると、カーテンを閉めた。
「由衣ちゃ〜ん、もう少し頑張らへんと、佐竹先輩は遠いで〜」
 真由子は由衣に小声でそう囁くと、もう一度大きく伸びをした。
「さ〜てと。着替えて、朝ご飯作んの手伝ってこ〜」


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