翌日、朝から陽はそわそわして落ち着かなかった。
 晶から授業の内容をしっかりノートに取っておいてくれと頼まれたのだが、それさえも気がつけばおろそかになっている。午前中、僅か4時間の授業がこんなに長く感じたのは初めてだった。
 陽は授業が終わると、北斗や潤一郎とダベっている圭介を横目に、飛び出すように教室をあとにした。
 そうして、家に帰り着くと、昼食もそこそこに洋服ダンスの前でにらめっこを始めた。いつもなら、こういう時に頼りになる晶は舞台のリハーサルでいない。自分のセンスに自信はないが、それでも陽は必死になって圭介に見せるための服を考えた。
 時間より少し早く家を出ると、陽は駅前で花束を買った。晶の舞台を見に行く時は、小さくてもいつも花束を持っていくことにしていた。それが、陽なりの晶への感謝の気持ちだった。いつもなら、いくら親友とは言え、そこまでは照れくさくてできない。だが、こういう場を特別と呼べるのなら、多少の照れはあっても、ありがとうと言えるのだと陽は思う。
 そうして、JR菟原駅から電車に揺られ、待ち合わせの三宮に着いた時は、まだ三十分以上前だった。目の前を流れていく人波を眺めながら、市営地下鉄の改札前で圭介を待っていると、不意に今までのことが思い出された。
 きっかけは、ほんの小さなことに過ぎなかった。
 まだ入学したての頃。中学来の親友である晶とも別のクラスになり、関東圏の出身で神戸の言葉にいまだ慣れていなかった陽は、自らの一歩引いた態度と相まって、早くもクラスから浮いた存在になっていた。
 そんなある日、母親が風邪で寝込んだ陽は、昼食に仕方なく地下の食堂へ降りた。地下の食堂は美味しいと評判だったが、昼食時間になるとものすごい人で侃々諤々の賑やかさになる。陽はあまりの人混みに思わず入ることすらためらったものの、お昼を食べない訳にもいかず、食堂へ入った。それでも、食堂に慣れた猛者たちに阻まれ、陽は注文することもできずに、人垣の後ろの方でおろおろしていることしかできない。こういう時頼りになる双子の弟の大洋は、先に授業が終わったようで、その姿は見えなかった。
「注文すんの?」
 忘れもしない。そこに声をかけてきたのが圭介だった。まだ真由子との同居も当然始まっておらず、この頃の圭介は昼食を食堂で取っていた。
「あ、はい…」
 恥ずかしさに赤くなる陽に、圭介は苦笑いする。きっとこれでは昼食にはありつけないと思ったのだろう。
「おばちゃーん! コロ定、2つ!」
「あいよっ!」
 背伸びをした圭介の大きな声に、調理場の中から大きな声が返ってきた。
「勝手に注文したけど、勘弁してな」
 そう言って圭介は陽を残して人垣の中に割って入っていく。
 そうしてしばらくすると、盆を2つ抱えた圭介が人垣の中から戻ってきた。
「ほい、300円」
 陽に盆を渡しながら、圭介はニッと笑ってそう言った。
「あ、はい…」
「こっちの盆の上置いて」
 陽は言われるままに、圭介が抱える方の盆に小銭を載せた。
「はい毎度〜。もう少し割って入らな、食いそびれんで」
 圭介は陽にそう笑いかけると、自分の盆を持って食堂の空いた席へ移動していった。
 そうして、陽は自分の昼食が終わったあと、教室に帰って圭介がクラスメイトだと知ったのだ。

 今から思い返すと、顔から火が出そうなほど恥ずかしいエピソードだが、それ以後も、特に自分を「関東人だから」と特別扱いしてこなかった圭介への好意は膨らんでいったのだ。陽が甲南市に越してきて2年になるが、晶と圭介という2人のおかげで、陽は今でも慣れ親しんだ関東言葉を喋り続けることができているのだ。言葉に特にこだわりがある訳ではないが、その戸惑いを少しでも和らげてくれたのはこの2人だった。
 そうして無事に今年も圭介と同じクラスになり、晶とも再び同じクラスになれたことは奇跡だと思えた。もっとも、圭介が自分のことを全く覚えていなかったのには少なからずショックを受けたが、それでも今日、こうして2人で出かけるなどと言う僥倖に恵まれたのだ。
(ありがとね、晶ちゃん…)
 陽は目を閉じると、本番直前で忙しくしているだろう晶に感謝の気持ちを飛ばした。
「おーす、葛城!」
 声に振り返ると、いつもの笑顔で圭介がやってきていた。薄いブルーのシャツに、Gパンというなんとも気楽な格好だった。
「あ、高遠くん!」
「お? 花束なんか持って来てんか」
 陽の手に持った花束を目敏く見つけて、圭介はそう聞いた。
「うん。晶ちゃんへ、ありがとうの印」
 陽はそう言ってにっこり笑う。自分でも驚くぐらい、圭介の前で素直に笑えるようになったと思う。
「そっか。高橋も、喜んでくれるとエエな」
 そう言う圭介の笑顔に、陽は大きく頷いた。
 2人で切符を買い、谷上行きの上りホームへ降りる。三宮から劇場のある新神戸までは僅かに1駅だ。その僅かな時間が、陽にとっては嬉しいものだった。晶の舞台が始まってしまうと、隣にいても話すことはかなわない。
「今日の高橋の出る舞台って、どんな話なん?」
 電車が動き出すとすぐ、圭介は陽にそう聞いた。
「時代劇って言うか、幕末のお話みたい。新撰組の隊士で架空の人物を何人か作って、新撰組が江戸へ落ちていく時に、目指す道の違いから、親友同士の2人はお互い対決しなきゃならないって話みたい」
 陽は、台本読みの手伝いをしていただけあって、すらすらとストーリーを話す。
「へえ…。で、高橋は何の役?」
「主人公の親友の少年剣士役。結構いい役貰ったみたいだよ」
 陽の答えに、圭介は思わず吹き出しそうになった。
「なるほどな…。高橋は少年役か。確かにアイツなら似合うやろな」
「あはは…」
 圭介が笑う意味がわかって、陽も苦笑いを返した。
(確かに、晶ちゃん男っぽく見えることあるから)
 陽がそう思ったころ、まもなく新神戸へ到着するとアナウンスが流れた。

「へえ…結構大きいホールなんやな」
 演劇の鑑賞が初めての圭介は、ホールに入って感嘆の声を上げた。
「うん。普段ならコンサートとかにも使われてるところらしいから」
 席に腰を降ろしながら、陽はそう答える。
「こうやってみると、結構すごいんやな、高橋のいる劇団って」
「そうでもないらしいよ。ここはかなり奮発して借りたって聞いたから」
 同じように席に腰を降ろす圭介に、陽は苦笑いしながらそう答えた。
「じゃあ、あとはゆっくり開演を待ちますか」
 圭介はそう言うと、椅子に深く座り直した。
 しばらく待つと、舞台は始まった。
 晶が演じるのは架空の新撰組隊士「谷川淳平」。主人公「刑部誠志朗」の親友だ。
「誠志朗!」
 晶の大声が響いて、舞台袖から晶が飛び出してくる。いつものショートカットではなく、カツラをして、羽織袴に帯剣という出で立ちだ。小柄なことを除けば、作った声からも女性とは思えないだろう。
(へえ…。たいしたもんやん)
 舞台で立ち回る晶を見ながら、圭介は感心していた。
(こんだけできるっていうのは、しっかりやってんやなあ…)
 そう思うと、ふと日々をのんべんだらりんと過ごしている自分のことを考えてみる。
(なかなか、高橋みたいに一本の道を迷いなくは選べんよなあ…)
 そう思うと苦笑が浮かぶ。
(まだ卒業するまで1年半もある。それまでに考えときゃエエか…)
 そうして見ていると、舞台はどんどん佳境へさしかかってきていた。
 脱隊した誠志朗を追うように命じられた淳平が、誠志朗と対決する下りだ。
「淳平…。おまえが来たのか」
 誠志朗役の役者がそう言葉を漏らす。
「局長命令だからな…」
 晶はそう言いながら、腰の剣を抜きはなった。
「いくら誠志朗といっても、脱隊を見逃す訳にはいかないからな」
「そうだろうな…」
 晶の言葉に、誠志朗役の役者も同じように剣を抜いた。
 やがて、2人は数合斬り結ぶ。が、晶は誠志朗役の役者がふと剣を緩めたことに気がつかず誠志朗役の役者を切り伏せてしまう。
「誠志朗!」
 晶は慌てて誠志朗役の役者を抱え上げた。
「どうして斬ってこなかった! おまえなら、俺くらいは簡単に斬れただろうが!」
 晶は大声で喚く。
「俺は迷った…。自分の主義のために、おまえを斬ることをためらった…。淳平…。おまえは迷うな…。おまえは、自分の信じた道を貫け…」
 誠志朗役の役者はそう言って事切れた。
「誠志朗ーっ!」
 晶はそう叫んで誠志朗役の役者を揺さぶった。いつの間にか、晶の瞳から涙がぼろぼろこぼれている。そうして、舞台は暗転した。
 ナレーションが、その後の新撰組の転戦を、最後を告げて舞台は終了した。
 拍手がわき起こる。
 晶は、誠志朗役の役者と並んで、舞台の中央で観客に頭を下げた。
(あたしは、精一杯やった)
 その満足感が体中に充満している。
 ふと客席の真ん中の方に、陽と圭介の顔を見つけて笑顔になった。
(来てくれてたんか)
 舞台の間は、集中しきっていたので、2人の姿を確認することすら忘れていた自分に気づく。
(やっぱり、あたしには演劇しか生きる道はないみたいやな)
 そう思い直して、緞帳が下りてくるまで、晶は2人に笑顔を向けていた。
「すごかったね」
 緞帳が下りきると、陽は圭介にそう話し掛けた。最後の下りで泣いてしまったので、ハンカチで涙を拭くことも忘れていない。
「確かになあ…。高橋ってすごいんやな」
 圭介も感心したようにそう言う。
「なんか、主役の人食ってもうてへんかったか?」
「わたしもそう思った」
 そう言い合って、2人は笑いあう。
「じゃあ、楽屋に行ってみようか」
 陽はそう言うと、圭介を率先するように席を立った。


次のページへ
前のページへ
戻る