退屈な授業は若干の苦痛を残して、ようやく終わった。 「陽、帰りにアイスでも食って帰るか」 授業が終わるなりの晶の言葉に、陽は目を白黒させた。 「あたしが奢ったるよ。じゃな、高遠、武藤、佐竹」 晶はそう言うと、陽の肘を引くように陽を立ち上がらせ、引っ張っていこうとした。 「じゃあね、高遠くん、武藤くん、佐竹くん…」 陽は引っ張られながらも、苦笑しつつ三人にそう声をかけて教室を出ていった。 晶は陽を引きずるように歩くと、JR菟原駅の総合ビルに入っているアイスクリーム屋に入っていった。 「ここでええか?」 「わたしは、どこでもいいけど…」 未だに戸惑いを隠せない陽は、そう言って晶の顔を見る。 「じゃあ、頼もっか」 そこで、ようやく晶は陽に笑顔を見せた。 「…でも、どうしたの、急に。普段は寄り道なんて滅多にしないのに…」 注文したアイスを舐めながら、陽は横の晶にそう聞いた。買い物でよることはあっても、お茶だとかの「飲み食い系」の寄り道は滅多にしない晶がアイスクリーム等というと、そのこと自体が不思議な感じがする。 「陽のためや、陽の!」 少し困った顔で、晶は軽く声を上げた。 「わたしの…?」 晶の言葉に、陽はきょとんとして聞き返す。 「高遠のことや。柴田と遊びに行くって聞いたくらいで、あんな顔すんなや」 晶はまだ困ったような顔で陽にそう言った。 陽の表情が暗い方へ動く。 「高遠、柴田とは仲いいみたいやな。お互い名前呼び捨てにしとおし」 晶はそう言うと、ちらっと陽の表情を見る。 陽はもうすでに随分と思いつめた表情になっていた。 「でも、あのふたりがつきおうてるとかそう言うんはない感じやな」 「…そうかな…。わたしたちと話す時と、高遠くんしゃべり方とか違うよ…」 晶の言葉に、陽はぽつっと感想を漏らす。 「きっと、高校までの間になんかあったんやで。例えば元彼女とかな」 そう言う晶の言葉に、陽はつっと俯いてしまう。 「陽。大事なんは過去やのうて今やろ? 少なくても、今の高遠と柴田は恋人とかそう言うんやないわ。やったら、陽にかってチャンスはある」 顔を上げた陽に、晶はニッと笑う。 「陽が一度こうやと決めたことを曲げへんのはよう知っとおって。陽は前向いて、いつものとおり頑張りゃええ。自分のペースでいきゃええんや。柴田と高遠の関係に惑わされてもしゃあないで」 「うん…」 「少なくても、高遠が柴田を見てる時の目に特別な感情はないわ。それだけは間違いない。だから、落ち込みなや、陽」 そう言って苦笑いする晶に、陽は大きく頷いて微笑んだ。 土曜日がやってきた。 朝から美幸はそわそわしている。 4時間の授業も上の空といった感じだ。 やがて、授業の終わりを告げるチャイムがなる。 「じゃあ、圭介、15時半に深江駅ね」 すごいスピードで教科書を鞄にしまった美幸が、圭介の席に飛んできてそう笑う。 「ああ。遅れるなよ」 「その言葉、そっくり圭介に返すから」 美幸はそう言うと、駆け出すように教室を出ていった。 「おー、柴田とデートかあ。高遠も隅に置けんなあ」 ニヤニヤした顔で潤一郎が近づいてくる。 「もちろん、お泊まりで夜も楽しんでくるんやろ?」 「おまえと一緒にすんな!」 にやけ顔の潤一郎に、圭介はそう声を上げる。 「高橋も葛城も気いつけや。こいつとふたりで遊びに行ったら確実に喰われるで」 「それはおまえのことやろうが!」 潤一郎と圭介の漫才のようなやりとりを見て、晶も陽も笑っていた。 「武藤より高遠の方が確実に安全やと思うぞ」 そう北斗もツッコミを入れる。 「そうやな。さらに言うと、高遠より佐竹の方が安全そうやし」 「高橋!」 面白そうに言う晶に、圭介はまた声を上げていた。 「ま、武藤と遊びに行くようなことになったら、避妊具くらいは用意して行くことにするわ。じゃあな」 「じゃあね、また来週」 楽しそうに笑う晶と、少しきわどい話題に軽く頬を赤らめた陽は教室を出ていった。 「俺はナマではせえへんわーっ!」 その背中から、潤一郎の大声が響く。 晶と陽は顔を見合わせると笑いあった。 約束の時間が近づいた。 圭介は時間ぴったりに着くように家を出た。 通学でも使う深江駅までの時間は、わかりすぎているぐらいわかっている。 地下の改札に降りると、券売機の前にもう美幸の姿があった。 タイガースの帽子をかぶり、リュックサックからは黒い柄のメガホンが顔をのぞかせている。 「よ、美幸。早いな」 「待ちきれるわけないやん! ちょっとは早よ来てくれるかな思うて、早よ来て待っとったんやで」 美幸は少し非難がましい目で圭介を見る。 「15時半言うたの美幸やないか。それに遅れてへんけど、俺」 圭介は苦笑いしながらそう言う。 「そりゃあ、そうやけど…」 正論を吐かれて、美幸は答えに窮する。 「ま、電車に乗ってから詳しい話は聞くわ。とりあえず切符買おうぜ」 「もう買ってあるよ」 そう言って、券売機に向かおうとする圭介を止め、2枚の切符を渡す。 「往復か。手回しええな」 「一応マネージャーやから」 そう言って美幸は笑う。 「じゃ、行こか!」 美幸はそう宣言すると、ものすごい勢いで改札を通っていった。 阪神タイガースが本拠地を置く阪神甲子園球場は、待ち合わせの深江駅からは途中で急行への乗り換えは必要なものの、20分ほどで着く。 電車に乗っている間でも、美幸の興奮ぶりは良く伝わっていた。 あまりプロ野球に熱心でない圭介にいろいろと解説していた。 やがて電車が甲子園駅に滑り込むと、待ちきれない美幸は一番に電車を飛び出す。 「圭介、早よ早よ!」 「焦っても試合は逃げんだろうが」 急かす美幸に圭介は苦笑いしながら駆け寄る。 「試合は逃げへんけど、雰囲気が逃げんの!」 圭介には意味不明な言葉を吐いて、美幸は圭介の手を引いた。 「お、おい美幸!」 「早よ早よ!」 いきなり引かれた手に戸惑う圭介をよそに、美幸は何も気にならないように改札を飛び出していた。 「甲子園やーっ!」 ライトスタンドに出るなり、美幸は両手を突き上げてそう声を上げる。 圭介は少々戸惑いながらも美幸の仕草に苦笑いだ。 「席について、練習見よ!」 スタンドの上の方を見上げると、美幸は満面の笑顔で圭介を振り返った。 「はいはい」 苦笑いでそう言う圭介を一瞥すると、美幸はポンポンとリズミカルな動きで階段を上っていく。美幸の背中でメガホンの柄が飛び出たリュックサックが揺れる。 「ホンマに野球見に来とお時だけは、女捨てとおな、あいつ」 圭介は苦笑いでそう呟くと、美幸を追って階段を上っていった。先に席に着いた美幸が満面の笑顔をもう一度圭介に向けた。 練習の時からテンションの高かった美幸のテンションは、試合直前になるとさらに高まった。 「両チーム、バッテリーを発表いたします。読売ジャイアンツ、ピッチャーは斎藤、キャッチャーは中尾」 レフトスタンドの巨人ファンが盛り上がる。エースの登場だ。 「阪神タイガース、ピッチャーは仲田、キャッチャーは木戸」 「マイクーっ、いけーっ!」 周囲のトラキチたちに混じって、美幸も声を上げる。 「仲田って、今年もあんまりええことないんやろ?」 「それでも開幕投手やもん! みんな期待しとるんやから!」 圭介の言葉に、唇を尖らせながら、美幸はそう言い返す。 「後攻、阪神タイガース、1番、センター大野。背番号2。2番、セカンド和田。背番号6。3番、サード岡田。背番号16…」 スターティングメンバーが発表されるたびにライトスタンドから大歓声が上がる。その大歓声の中にいて、美幸は歓喜している。 (ホンマにきちがいやなあ、美幸は) 圭介はそんな美幸を見て苦笑いしていた。 試合は、ジャイアンツ斎藤と、タイガース仲田の投げ合いで始まった。緊迫した投手戦になりそうだったが、6回、仲田が原に3点本塁打を打たれたことで均衡が破れた。そして、タイガースは8回、2番和田のタイムリーで2点を返した。そうして、9回裏を迎えた。 「ほら、圭介も立って立って!」 試合中、ずっと座って試合を見ていた圭介の腕をとり、美幸は圭介を立ち上がらせる。 「この回で決めるんやから!」 そう言う美幸の目は据わっている。 「へいへい…」 圭介はそう言いながら席を立った。その瞬間ライトスタンドで大歓声が上がる。 「ええぞーっ、真弓ーっ!」 歓声の中にそんなだみ声が混じっていた。 「真弓がヒット打ったんか?」 聞く圭介に美幸は頷く。 「サヨナラのお膳立てはできたよね」 「まだ1点差あるぞ?」 「野球は9回からやもん!」 熱の籠もった声が圭介に返ってきた。 6番中野の送りバンドで真弓は2塁に進む。そして、7番は八木。心地よい快音を残して、打球は左中間を抜ける。ライトスタンドから割れんばかりの大歓声が起こった。真弓がホームを駆け抜け、八木はセカンドベースへ到達する。地鳴りのような歓声が球場に響いた。 「同点や、同点!」 興奮して頬を紅潮させた美幸が、同意を求めるように圭介に詰め寄る。 「ワンアウト2塁か。ひょっとすると、ひょっとするかもな」 「がんばれー、木戸ーっ!」 圭介の言葉もろくに聞かずに、美幸はグラウンドに声援を送っていた。ジャイアンツのピッチャーは鹿取に代わっている。 歓声の続く球場の中、木戸はセカンドゴロに倒れたが、その間に八木は3塁へ進んだ。次の打順は途中から代わったピッチャーの久保だ。 「タイガース、選手の交代をお知らせいたします。バッター、久保に代わりまして、田尾。バッターは田尾。背番号8」 わーっと大歓声が起こる。代打の切り札の登場だ。ここでジャイアンツも、ピッチャーを右の鹿取から左の角に代えた。左打者の田尾に対するためだ。 「かっとばせー、たーお!」 ライトスタンドから怒濤のような声がグラウンドに降り注ぐ。 そして、打球は1、2塁間を抜けた。 歓喜の表情で八木がホームに帰ってくる。 田尾も、1塁を回ったところでベンチから飛び出してきたチームメイトにもみくちゃにされた。 スタンドのボルテージは最高潮に達した。 「やったあ、サヨナラやーっ!」 興奮した美幸が、そう叫びながら圭介に抱きついてきた。 「美幸っ!」 その温もりと柔らかさに戸惑う圭介の声も、大歓声にかき消されて美幸の耳には届かない。一瞬の抱擁を終えると、美幸はグラウンドに向かってまわりのファンがそうするように万歳をしていた。 (まったく…) 「六甲おろし」の大合唱が始まったスタンドで、気持ちよさそうに歌う美幸の横顔を見て、圭介は苦笑いを浮かべずにはいられなかった。 |