春風来たる ハルカゼ キタル

 夕暮れ前の街を一つの影が駆けていた。
 小学生にも見えそうな小柄な身体に、不釣り合いなほどの大きな鞄を背負って。
 それでも、彼女はバランスを崩すことなく、飛ぶように駆けていた。
 やがて、その姿は4階建ての小さなマンションの前で立ち止まる。
 彼女はひとつの部屋を見上げて、嬉しそうに微笑むと、マンションの狭い入り口に駆け込んでいった。そのまま、最上階へ駆け上がる。403号室の表札を確認して、もう一度嬉しそうに微笑んだ。
 ぴんぽ〜ん、ぴんぽ〜ん。
 間の抜けたドアホンの音が響く。
 だが、しばらく以上待っても返事はない。
「あれ? 確かもう連絡行ってるはずやのになあ…」
 彼女はそう呟くと、もう一度、二度とドアホンのボタンを押す。
 だが、返事はやはりない。
「しょうがないなあ…。帰ってくるまで待ってよ…」
 彼女は夕暮れの空を見上げてそう呟くと、ドアの横に腰を降ろした。


 高校の春休みというのはえてして怠惰に流れがちだ。
 部活動にでも参加していればそうでもないだろうが、いわゆる無所属だと、宿題さえもないような2週間は、特にその傾向が強い。
 この春で、高校2年生になる高遠圭介もそのような怠惰な生活を送っていた。と言っても、大学教授の両親が自身の研究のためにタイへ行ってもう2年になる圭介にとって、この春休みは小遣い稼ぎのためのアルバイトに明け暮れている。それこそ不眠不休でバイトを続けているので、帰るのはは深夜に近い。その日も、そうしてバイト先の喫茶店を出たのは23時を回っていた。
「ほんじゃあ、マスターお先に〜」
「ああ、気をつけてな」
 店のマスターはそう言って軽く手を振りながら圭介を見送る。
 圭介も背中で軽く手を振って店の勝手口のドアを閉めた。
「あ〜、後何日やったっけか、春休み…」
 圭介は指折り数えてみる。
「後2日か〜。バイト三昧やったから、全然休んだ気がせえへんなあ…」
 圭介はそう言ってため息をついた。
 いくら宿題がないからと言って、張り切りすぎたかも知れない。
「ま、ええか…。学校始まったら、少しは楽になるやろ…」
 圭介はそう呟くと、自宅の鍵を取り出した。
 圭介の自宅はマンションの一室だ。マンションと言っても、そんなに大きなマンションではない。十数戸しかない小型マンションだ。
 軽い足取りで階段を駆け上がり、自分の部屋のある4階まで来ると、部屋の前にうずくまる人影がある。
(なんや…?)
 圭介は訝しんで思わず壁に隠れた。そうして壁から顔だけ出してもう一度その人物を窺う。
 膝に顔を埋めているので、顔ははっきりと判別できないが、小学生と見まごうぐらいかなり小柄だ。体の線から見ても男だとは思えない。
(はて…?)
 今まで女に追いかけられるようないい思いをしたことはない。あれこれといろんな可能性を考えて、最後によく知る人物にぶち当たった。
(その可能性が高いか?)
 圭介はそう思うと、わざと普通を装って部屋の前まで歩く。そうすると、うずくまる人影が顔を上げた。
「おにーちゃん!」
 うずくまる人影は、満面の笑みをたたえてそう声を上げた。
「やっぱり、真由子か…」
 圭介は頭痛がする思いでそう言った。
 斉藤真由子は圭介の従妹だ。1歳年下のため、圭介を「おにーちゃん」と呼んで懐いている。彼女の両親も、圭介の両親と同じ大学で、圭介の父の助教授をやっているのだ。そして、真由子の横に大きな旅行鞄。ということは。
「真由子…、なんや、その荷物…」
 圭介は真由子の横の鞄を差しながら、そう聞く。
「ああ、これ? わたしの着替えとか、学校の道具とか」
 真由子は立ち上がると、スカートの汚れを払いながら悪びれもせずにそう言う。
「叔父さんと叔母さんは…?」
「あれ、連絡行ってへん? 今日からタイの伯父さんとこに手伝いに行っちゃったよ。だから、ここで世話になれって言われて来たんやけど?」
 真由子は首を傾げながらそう言う。
「連絡なんか来てへんわ…。なんでいっつも急なんや、叔父さんたちも、ウチの親も…」
 圭介は頭を抱えてそう言う。
「え〜、おかしいなあ…? 昼前にファクス流したのに…」
「俺はバイトや! 朝から出掛けて、今帰ってきたんや!」
 圭介が真由子にそう言うと、真由子はさすがに苦笑いした。
「まあええわ、あがれ」
「は〜い、お邪魔しまーす!」
 渋い表情の圭介に促され、真由子は部屋の中に入っていった。
 真由子が居間で荷物の整理を始めたのを横目に見ながら、ファクスの前に立つと、叔母の字で書かれた紙が床に落ちていた。
『夫婦で次春兄さんの手伝いに行ってきます。その間真由子のことよろしくね。家事は全部やるように言い含めてあるから、自由にこき使ってやってちょーだい。なお、いつ帰るかは不明です。よろしくねー』
(叔母さん…)
 圭介はファクスの文面を読んでまた目眩がした。
 つまるところ、家事を全部やらせるから、真由子を帰ってくるまで面倒見てくれと言うことらしい。
「真由子。おまえ、叔母さんらいつ帰ってくるか聞いてるか?」
 まだ荷物と格闘中の真由子に、圭介はそう聞く。
「ううん、全然。死ぬまで帰ってけーへんかも知れへんよ」
 真由子はそう言って笑う。
「相変わらず、この親にしてこの子ありやなあ…。ったく」
「でも、家事全般全部やるから、おにーちゃんは楽でしょ? 元々ものぐさなんやし」
 真由子の笑顔に、圭介はため息をついた。
「そりゃあ、助かるけどな…。ま、とりあえず、そこの部屋使えよ。空いとおからさ」
 圭介がそう言うと、真由子は笑顔で大きく頷いた。
 その夜、圭介は遅くまで真由子に与えた部屋でする物音を聞きながら眠りについた。


                                         

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